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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2024年8月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2024年8月25日 
「ペトロとイエス」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書18章12−18節



 ユダが、一隊の兵士と祭司長たちやファリサイ派の人々によって遣わされた下役たちを引き連れてやってきました。たいまつや武器を持って、とありますから大変ものものしい様子です。彼らは綿密に計画をたてたことでしょう。主イエスが捕らえられたことは、彼らの密談やはかりごとの結果であるように見えますが、「主イエスはご自分の身に起こることを何もかも知っておられ…」とあります。人の思いによってことが進んでいるように見えますが、すべてのことは神様のご計画の中にあることを、主イエスご自身がわかっておられました。



 神の御心を知り、従っていかれるイエス・キリストと、主イエスの弟子であることを問われて「違う」と否定してしまうペトロ。18章では、この二人の姿が交互に示されています。ペトロは「あなたのためら命を捨てます」と宣言していました。わずか1日前のことです。その思いに偽りはなかったでしょう。マタイによる福音書では、のろいの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓い始めたとあります。その後鶏が鳴き、主イエスの言葉を思いおこしてペトロは激しく泣きました。このペトロの弱さ、情けない姿に、わたしたちは人間すべての者の弱さを重ねて見せられます。



 後に主イエスはペトロにご自身をあらわされ、「わたしの羊を養いなさい」と、新たに使命を与えられました。約束の聖霊が注がれてペトロは力強い主の復活の証人となり、パウロと共に初代教会の導き手として用いられました。4福音書すべてに、このペトロが3度イエスを否認した出来事が記されています。隠しておきたい、忘れてしまいたい出来事のように思いますが、ペトロは決してこのことを忘れることなく、使徒として主に仕えたのだと思います。
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 2024年8月18日 
「勇気を出して」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書16章25−33節



 ヨハネによる福音書では、13−16章までかなり長い部分になりますが、主イエスが十字架に架かられる一日前の出来事、そして訣別の説教とも呼ばれる主イエスの言葉が記されています。



 13章は、イエス様が弟子たちの足を洗われた、というところから始まりました。主イエスは「互いに足を洗い合いなさい」と弟子たちに言われ、仕える者としての姿を示されました。そして、新しい掟として「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と最も大切な戒めを語られ、15章においては「わたしはまことのぶどうの木」「わたしにつながっていなさい」と、ご自身をぶどうの木に譬えられました。そして先週は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と、イエスご自身がわたしたちを選び、行って実を結ぶようにと遣わしてくださることが語られました。そしてこの16章で、訣別説教は終わり、17章は主イエスの祈り、その先はイエスが捕らえられる場面へと進みます。



 「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(33節)

 訣別説教の中の最後の言葉です。「世で苦難がある」という言葉は他の聖書では「この世では悩みがある」「この世では苦難と悲しみが山ほどあります」とも訳されています。今わたしたちはキリスト者として厳しい迫害に直面するということはないかもしれませんが、日々の歩みの中で様々な戦いを覚えます。目に見えない圧力のようなものに直面することもあります。わたしたちの日々の生活には様々な問題が生じてきます。しかし、「勇気を出しなさい」とこの朝励まされています。



 既に十字架と復活を通して罪と死の力に勝利されたイエス・キリストが共におられ、わたしたちはそのお方と結ばれている者なのです。
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 2024年8月11日 
「選ばれた者」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書15章11−17節



 先週に続いてヨハネによる福音書15章11節から読んでいただきました。イエス・キリストが十字架に架かられる直前に、お別れの言葉として語られた言葉です。主イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と、ご自身をぶどうの木にたとえられました。さらに主イエスにつながっているならば、豊かに実を結ぶことができること、またイエスにつながるということは、わたしたちの内にいつも主イエスの言葉があるということである、と語られました。



 「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(12節)

 すでに13章で語られた言葉が、もう一度繰り返されています。「互いに愛し合う」このことが、主イエスの示された新しい、最も大切な戒めであることが示されています。



 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(16節)

 わたしたちは自分で選んで教会に行き、信仰をもったと思っているかもしれません。しかし主イエスは、選んだのはイエス・キリストご自身なのだということをはっきりと語っておられます。そしてわたしたちが出かけて行って実を結ぶことが期待されているのです。



 日本においてキリスト者の割合は、わずか1パーセントに満たないといいます。しかしごく少数者であっても、キリストに選ばれた者としてそこになくてはならない存在なのです。「互いに愛し合いなさい」という戒めを知り、み言葉に生かされている者としてわたしたちはそれぞれの場に遣わされています。「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように…」とあります。わたしたちは何を願い求めるでしょうか。信仰をもって期待して祈る者でありたいと願います。
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 2024年8月4日 
「ぶどうの木」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書15章1−10節



 「わたしはあなたを、甘いぶどうを実らせる確かな種として植えたのに、どうして、わたしに背いて、悪いのぶどうに変わり果てたのか。」(エレミヤ書2:21)

 旧約聖書では、神様の愛、期待を裏切り、神に背を向けて歩む民の姿が「悪いのぶどう」に譬えられています。 ヨハネによる福音書15章では、「わたしはまことのぶどうの木」であると、イエス・キリストご自身が自己紹介のように語られています。悪いのぶどうに変質してしまうようなものではない、わたしこそがまことのぶどうの木であると示されています。



 「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。…」(4節)

 「つながって」という言葉が繰り返されています。「とどまる」「住む」「続ける」などと訳される言葉です。私たち人間は、自分の力で良いぶどうの木になることはできません。主イエスとの豊かな交わりの中に自分自身を置き続けることによって、良い実を結ぶようにと勧められています。



 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(7節)

 わたしたちが主イエスにつながっていること…それは言葉を変えれば、わたしたちが聖書の言葉の中に身を置くということ、み言葉に親しみ、み言葉に生かされるということになるのではないでしょうか。そのようにして主イエスにつながっているならば、望むものは何でもかなえられると約束されています。主イエスにつながっている者としてわたしたちが今願うもの、望むものは何でしょうか。人の目には実現が困難に思えることでも、主はかなえてくださるとの約束が与えられています。
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