←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2024年9月 1日 8日 15日 22日 29日 目次に戻る
 2024年9月29日 
「主イエスはどこに」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書20章1−10節



 わたしたちは毎週日曜日にささげる礼拝は、イエス・キリストが復活されたその日を覚え、記念してささげる主の日の礼拝です。 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」



 マルコによる福音書によると、マグダラのマリアは主イエスに、七つの霊を追い出してもらった女性、とあります。主イエスを慕っていたマリアは一刻も早く、主イエスのお墓のところに行きたいと思っていたでしょう。安息日の次の日、週の初めの日朝早く、マリアは主イエスの墓にかけつけました。そうすると、墓から石が取りのけてあり、イエス様の体がありません。あまりの出来事に衝撃を受け、悲しみも涙もどこかに行ってしまうほどだったでしょう。慌ててペトロともう一人の弟子のところに走って行ってこう告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」マリアは、誰かがイエス様の体を運び出してしまった…そう思ったわけです。それを聞いて、ペトロともう一人の弟子は墓に駆けつけました。そしてペトロが墓の中に入ってみると主イエスの体はなく、亜麻布が置いてありました。そして「もう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた。」とあります。



 「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった。」 ペトロたちは、主イエスの復活を信じました。しかし、神様の救いのご計画の中で、聖書の約束の言葉が実現したのだということを、まだ理解していなかったのです。

 時代が変わっても、わたしたちの福音の原点は、イエス・キリストの十字架と復活にあるのです。
目次に戻るページトップ
 2024年9月22日 
「成し遂げられた」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書19章28−37節



 「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」(28節)

 「成し遂げられた」という言葉が出てきます。30節にも「…成し遂げられたと言い、頭をたれて息を引き取られた。」と記されています。



 「成し遂げられた」という言葉には、「終わり」と「目的」という意味があります。口語訳聖書では「すべてが終わった」となっていますが、ここにはイエス・キリストの十字架は、神様の救いのご計画という目的が果たされたという意味での終わりであることが示されています。主イエスの十字架は、何の前触れもなく起こった出来事ではありません。また主イエスを殺したいほどにまで憎んだ人々、押し切られるようにして十字架刑を言い渡したピラトのせいでもなく、神様の救いのご計画の中で、イエス・キリストによって成し遂げられた救いの業なのです。ヨハネは「聖書の言葉が実現した。」と旧約の言葉を引用しながら繰り返し語っています。



 主イエスが息を引き取られる前に「渇く」と言われました。わたしたち人間と同じ、肉体を持つものとしての渇き、苦しみを味わわれたのです。この渇きは喉の渇きだけではなく、わたしたちが経験する様々な渇き、心の渇き、霊的な渇き、すべてを含んでいるのではないでしょうか。



 ヨハネによる福音書に於いては、主イエスが十字架に架かられたのは過越祭の準備の日であり、丁度過越しの子羊が屠られるときと重なりました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」(1:29)と洗礼者ヨハネが言ったように、わたしたちの罪の赦しのために、神の子羊、イエス・キリストが十字架に架かられたことが指し示されています。
目次に戻るページトップ
 2024年9月15日 
「実現するために」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書19章16−24



 「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。」(17節)

 他の福音書を見ると、ゴルゴタへ向かう道にキレネ人シモンという人が現れて、無理やり十字架を担がされて歩いたということが記されています。しかしヨハネによる福音書には、シモンという人は登場しません。おそらくここで一番大切なこととして伝えているのは、主イエスがたった一人で自らすすんで十字架を背負って歩いてくださったと、いうことだろうと思います。



 ピラトによって十字架の上に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きが掛けられました。そしてその言葉はヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語で書かれていたとあります。不思議なことですが、ローマの総督ピラトによって、世界に向けてイエス・キリストが真の王であることが告げ知らされています。



 主イエスが十字架につけられたその足元では、兵士たちが主イエスの服を分け合っていました。当時の人は上着を一着しか持っていなかったといいますから、服は大変貴重なものでした。彼らは十字架の上で苦しまれている主イエスの姿には一切目もくれず、少しでも自分が得するようにと目の前の損得ばかりに心が奪われています。これはいつの時代、どこにおいても繰り広げられている、わたしたちの社会の現実ではないでしょうか。



 「聖書の言葉が実現するためであった。」と詩編22篇の言葉が引用されています。イエス・キリストの十字架は、神様の救いのご計画の実現でありました。今も主の十字架はわたしたちの社会のただ中に立ち、主イエスを見上げるようにとわたしたちは招かれています。
目次に戻るページトップ
 2024年9月8日 
「十字架へ」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書19章1−12節



 わたしたちは毎週の礼拝の中で使徒信条を告白し、その中で「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ…」と言葉にします。イエス・キリストが十字架につけられることが決められたその出来事は、とてもここに記されているような短い言葉で表現できるものではありません。今朝読んでいただいたところには、ピラトと何としてもイエスを死刑にしたいと思う人々とのやりとり、駆け引きというものが記されています。



 ピラトは繰り返し「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」と言って、主イエスを釈放しようとします。「わたしの国はこの世には属していない、わたしは真理について証をするために来た…」という言葉を聞いて、理解はできなかったでしょうが、国家の転覆を企む危険人物ではないと判断したのではないでしょうか。主イエスを何としても十字架につけたいと思う祭司長やファリサイ派の人々は、「この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」と言って、ピラトを脅すようなことまでしています。圧力に屈するようなかたちで、終にピラトは十字架刑につけるために、主イエスを引き渡すことになりました。人間の憎悪という感情は、相手を否定し何としても消してしまおうとするものすごいエネルギーとなることを思わされます。



 主イエスは鞭で打たれ、茨の冠を被せられ、平手で顔を打たれ、紫の服を着せられて人々の前に出てこられました。イザヤ書53章の「そこには見るべき面影はなく…」という苦難の僕の姿そのものでありました。ピラトは「見よ、この男だ」と主イエスを指しました。ここに、わたしたちの救い主、真の王の姿が指し示されているのです。
目次に戻るページトップ
 2024年9月1日 
「ピラトの前で」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書18章28−35節



 イエス・キリストが十字架に向かわれるその出来事の中で、様々な人が登場します。ここでは、イエスをピラトのもとに連れてきた祭司長やファリサイ派の人々、そしてイエスを尋問したピラトが登場します。わたしたちはそれらの人々に対して、何とひどいことをするのか、という感情を抱いてしまうかもしれません。しかし、イエス・キリストを囲むこれらの人々の姿の中にわたしたちは、人間とはこういうものなのだという、すなわちわたしたち自身の姿を見せられるのではないでしょうか。



 ファリサイ派の人々は、決してピラトの官邸の中には入ろうとしませんでした。汚れのために過越祭の食事ができなくなることを避けるためでした。律法の細かな規則を守ることを重んじる彼らは、自分たちこそ神の前に正しい者だと信じ、イエスを受け入れることができませんでした。そしてローマの法で裁かれることを求める姿の中には、自分たちの手は汚したくない、また後で非難されたり責任を問われることがないようにという、自己保身を第一に考える姿が見えてきます。



 ピラトにとって重要なことは、ローマから遣わされた総督として担当する地域で問題が起こらないようにすることでした。「その男ではなくバラバを」と叫ぶ大きな声に押されて、イエスではなくバラバという強盗が釈放されることになりました。イエスを死刑に、と訴えてきたユダヤの宗教者たちの顔色を窺っているように思われます。



 様々な人の思いがうごめく中、人の計画ではなく神の救いの計画が実現へと向かって行くのです。
目次に戻るページトップ