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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2025年3月23日 
「荒れ野で」加藤豊子牧師
ルカによる福音書4章1−13節



 イエス様が活動を始められる前に、荒れ野で悪魔からの誘惑を受けられたことが記されています。悪魔、サタン、という言葉から、わたしたちはどのようなものを想像するでしょうか。この言葉には、敵対者という意味と共に、妨げるもの、道をふさぐもの、という意味もあります。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から与えられました。悪魔は、イエス様が神様の御心に従うことを邪魔する、与えられた使命を果たすために進まれるその道をふさごうとします。



 「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」空腹の主イエスに、悪魔は誘います。神の力で石をパンに変えて見せる、そのようなことができたら、見た人は驚いて主イエスが神の子であることを認めるかもしれません。主イエスは「人はパンだけで生きるものではない。」という聖書の言葉をもってその誘惑を退けられました。昔イスラエルの民が荒れ野で空腹に苦しんだとき、神は天からマナという食べ物を与えて民を養われました。それは、人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きることを知らせるためであった、と申命記に記されています。



 主イエスは、人々の前で驚くようなことをやって見せて注目を集める、またはこの世の権力を握って従わせる、そのようなメシア、救い主の在り方を否定されました。イエス様が歩まれた道…それは己を低くして罪人と共に歩み、十字架の死に至るまで僕として歩まれる道だったことを、この受難節のとき、覚えたいと思います。
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 2025年3月16日 
「イエスの洗礼」加藤豊子牧師
ルカによる福音書3章1−14節



 「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」(15節)  洗礼者ヨハネは主イエスより半年早く、ザカリヤとエリサベツの間に誕生しました。主イエスの働きのために道を備えること、それがヨハネに与えられた役割でした。ヨハネは「荒野で叫ぶ声」として人々に悔い改めを呼びかけ、洗礼を授けていました。



 当時人々は、ローマの支配から解放してくれる力強い政治的メシア、また生活の苦しさから救ってくれるメシアを待ち望んでいました。人々に悔い改めを呼びかけ、洗礼を授けているヨハネの姿を見て、この人こそ待ち望んでいたメシアではないか、と考えたとしても不思議ではありません。



 ヨハネははっきりと、その考えを否定しました。「…わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」(16節)

 主人の履物のひもを解くのは、僕の仕事でした。ヨハネは自分より後から来るお方、イエス様に対して、自分はその方の履物のひもを解く値打ちのもない、僕以下の存在なのだ、と言っています。イエス・キリストを指し示すこと、それがヨハネに与えられた役割でありました。



 罪のない神の子、洗礼を受ける必要のないイエス様が、ヨハネから洗礼を受けられました。そこには、罪人と同じところに立たれる姿、神の子でありながら一番下まで下って来られた姿が示されています。飼い葉桶の中に生まれ、貧しい者、病に苦しむ者、取税人や罪人と呼ばれ周囲から疎外された者たちと共に歩まれ、最後は人々の罪の罰を背負って十字架の上で死なれたその生涯は、罪人と共に歩む救い主、神の子の歩みでありました。
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 2025年3月9日 
「荒れ野で叫ぶ者」加藤豊子牧師
ルカによる福音書3章1−14節



 先週のイエス様の少年時代の話に引き続き、3章からはイエス様の公生涯の始まりとなります。最初に登場するのは主イエスではなく、洗礼者ヨハネです。そしてヨハネの登場の前に、1.2節で9人もの人の名前が記されています。



 先ず「皇帝ティベリウスの治世第15年」とあります。イエス様が誕生されたとき、皇帝アウグストゥスが全領土の住民に登録せよとの勅令を出しましたが、そのアウグストゥスの次の代の皇帝であり、15年というのは紀元28−29年頃のことだということが、歴史上わかっています。



 その他、イエス様が十字架に架かられる前、裁判の場面で登場する人物の名前も記されています。どうしてこんなにも細かく、歴史上の人物名を記しているのか…と思いますが、それはイエス・キリストによる救いの出来事が決して架空の作り話ではなく、世界の歴史の中で確かに起こったということを示すためでした。



 「荒れ野で叫ぶ声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。…」(4節)

 イザヤ書40章からの引用です。イザヤの時代だけではなく、主イエスの時代も、2,000年の時を経たわたしたちの時代も、世の中を見渡せば荒れ果てている、という状況が見られるのではないでしょうか。技術の進歩目覚ましく、豊かな時代を迎えているようですが、各地で戦争は続き分断と対立は深まり、そこには荒れ野が広がっています。



 わたしたちの心の中も、罪深く愛に乏しく、かわいた荒れ野が広がっているのではないでしょうか。神様はこのようなわたしたちを救うために御子イエス・キリストを遣わされ、ヨハネは主の道を備えるために、悔い改めの洗礼を人々に呼びかけたのです。
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 2025年3月2日 
「少年イエス」加藤豊子牧師
ルカによる福音書2章41−52節



 イエス様の少年時代の話が記されているのは、ここの箇所のみです。イエス様の子ども時代…どんな風に過ごされたのだろうということは、わたしたちの興味をそそります。実際に、子ども時代の伝説のようなお話も残っています。



 福音書は、イエス・キリストの伝記とは少し違うと思います。伝記は偉人と呼ばれる人の生まれや家族、子どもの頃のエピソードなど、詳しく紹介します。しかし、福音書はある目的をもって書かれています。ヨハネによる福音書20勝31節には、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり…」とあります。この少年時代のイエス様のお話は、単なる子ども時代のエピソードではなく、それを通し救い主イエス・キリストの姿が示されているのです。



 イエス様は12歳になったとき、両親と一緒に過越し祭に参加するため、エルサレムへ上りました。帰り道、一日の道のりを行ってしまったところで、マリアとヨセフはイエス様がいないことに気づきます。親戚や知人の間を探し回りながらエルサレムへ引き返すと、なんとイエス様は神殿の境内で、学者たちと一緒に座って話を聞いたり質問したりしていました。マリアは思わず「なぜこんなことをしてくれたのです。」と言いますが、それに対しイエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか。」と答えました。この主イエスの言葉には人として生まれたイエス様が、神様の働きを担うお方であることが示されているのです。
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