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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2025年6月29日 
「人生の土台」加藤豊子牧師
ルカによる福音書6章46−49節



 「家と土台」という見出しがついていますが、この有名なたとえ話が、主イエスの語られた「平地の説教」の最後となります。マタイによる福音書7章にも、ほぼ同じ話が記されています。主イエスの言葉を聞いて行う人というのは、このように家を建てた人に似ている、と二つの家の建て方が比べられています。



 「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。…」(48節)

 ルカでは、地面を深く掘り下げて、岩の上に家を建てるか、掘らずにそのまま地面の上に建てるか、というところに違いがあります。原文に沿って訳すならば「彼は掘った、そして深めた。そして、いしずえを岩の上に据えた」となります。岩の上にそのようにしっかり家を建てたならば、洪水が押し寄せてきても揺り動かされることはないと語られています。



 岩はイエス・キリストご自身であり、また神の言葉を示しています。堀り、深めてその上に家を建てるということは、わたしたちが信仰の歩みの中で主イエスとの交わりを深め、またみ言葉に深く聴くということを意味しているのではないでしょうか。



 洪水の被害は年々ひどくなり、また水害だけでなくいつどのような災害が起こるかわからないような時代です。わたしたちお互いの人生においても、同じようなことが言えるわけです。信仰をもって歩んできたと思っても、思いもかけないことでわたしたちは揺れ動くものです。わたしたちがどのように揺れ動いたとしても、イエス・キリスト、神の言葉という土台は決して揺るがず、変わることのない存在です。
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 2025年6月22日 
「実によって知る」加藤豊子牧師
ルカによる福音書6章43−45節



 聖書の中には、様々な実のなる木が出てきます。一番多く登場するのはぶどうの木です。またミカ書4章によれば、自分の植えたぶどうの木とイチジクの木の下に住むことは、イスラエルの人々にとって幸福、平和、豊かさの象徴でありました。



 「木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からイチジクは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。」(44節)

 木は、その結ぶ実によって、良い木か悪い木かがわかる、と語られています。ルカによる福音書に於いては、目の前にいる弟子たち、従って来た人々に向かって語られた主イエスの言葉です。日々の生活の中での行いが問われている、なかなか厳しい指摘であり、また今を生きるわたしたちも、問われていることだと思わされます。



 「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉らか悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(45節)

 わたしたちが口から発する言葉のことが言われています。「心からあふれ出ることを語る」と、わたしたちの心がどのようなものであるか問われています。「良いものを入れた心の倉」というところには「宝」という言葉が使われています。パウロの「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」という言葉を思い起こします。もろい、欠けだらけの土の器に、イエス・キリストという宝が宿ってくださるのです。わたしたちは心の内に、主イエスの愛、言葉を与えられているのです。良いものは、このイエス・キリストから引き出されるものであることを思わされます。
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 2025年6月15日 
「主イエスの教え」加藤豊子牧師
ルカによる福音書6章37−42節



 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」

 「裁く」(ギリシャ語でクリノウ)という言葉には、判断を下すこと、司法的に裁断すること、という意味があります。元々は法廷用語で、罪の宣告や断罪を意味する言葉です。イエス様がここで「人を裁くな」と言われたのは、そのような裁判所での審判についてではなく、わたしたちの日常生活でのことだと思われます。わたしたちは日々、友人知人、家族など様々な人々との関わりを持っているわけですが、そのような中で「人を裁かないように」と語られています。



 裁くということは、判断を下すことです。何を基準として判断を下すのか…多くの場合、自分の考えを基準としてしまうのではないでしょうか。何気ない会話の中でも、人のことをあれこれと判断してしまう。それは結果的に誰かを裁いていることになっている。これは、誰もが心に思い当たるところがあるのではないでしょうか。



 「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。…」(41節)

 自分のことを棚に上げて、人のことを非難しやすいわたしたちの姿が示されています。「人を裁くな、人を罪人と決めるな、赦しなさい、与えなさい…」これらのイエス様の教えは、世の中一般で言われる人生訓として語られたのではありません。

 「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい。」(36節)

 イエス様の教えには、その根底に神の愛、憐み、赦しがあるのです。
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 2025年6月8日 
「力を受けて」加藤豊子牧師
使徒言行録1章6−11節c



 今朝は、聖霊降臨日礼拝であり、またシロアム教会創立77周年記念礼拝でもあります。祈り待ち望んでいた弟子たちの上に、約束されていた聖霊が注がれました。その出来事は、使徒言行録2章に記されています。弟子たちは力を受けて福音を語り、そこに教会が誕生し、また全世界へと宣べ伝えられて行きました。



 「激しい風が吹いてくるような音が聞こえ…」(2:2)とあります。神の息が激しい風となって、弟子たちの中に吹き込まれました。それは、神ご自身が弟子たちの中に入って働かれるということです。聖霊の働きによって、弟子たちは変えられました。ペトロは力強く、復活の主イエス・キリストの証人として立ち上がり、語り始めました。本当にあのペトロだろうか…と思うような姿です。また聖霊、神の力を内に宿すということは、わたしちが神の聖さに与る者へと変えられていくということでもあります。



 シロアム教会創立の様子は、記念誌に詳しく記されています。大村善永牧師が東京盲人会館(現ヘレンケラー会館)で、英語、点字を教える仕事が与えられ、その内の3人が「日曜日にぜひ聖書研究をしてください」と申し出てこられ、そこで日曜日に聖書勉強会が始まり、この集まりがシロアム教会の出発点となりました。



 その後、最初の会堂建築に向けて大変な苦労があったことも記されています。祈祷会ごとに熱心な祈りがささげられ、盲人信徒たちは募金に奔走し、大村牧師は土地と建物をささげ、多くの助けが与えられて、1950年12月に献堂式が行われました。今も祈り求める者に聖霊は豊かに注がれ、力を受ける。その約束がわたしたちに与えられていることを覚え、希望をもって歩む者でありたいと願います。
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 2025年6月1日 
「神の愛」加藤豊子牧師
ルカによる福音書6章27−36節



 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。…」(27節)

 やられたらやり返す…そのような思いを抱いてしまう人間の姿とは正反対の在り方が、ここに示されています。わたしにはとてもできません、無理です、としか言えないようなことが書かれています。



 主イエスは誰に向かって、語られているのでしょうか。先週の続きで、イエス様は目の前にいる弟子たち、従ってきた人々に向かって語っておられるのです。「貧しい人々は、幸いである。」たとえ貧しさの中にあったとしても、神の国が与えられている、すなわち神を信じて生きる者とされているということは、幸いなのだと言われました。そして、その幸いの中に生かされている者に対し、敵を愛する者となりなさいと語られているのです。自分を愛してくれる人を愛したところで、何の意味があるだろうかと言われています。



 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)

 主イエスの、十字架上での言葉です。イエス様は自分を十字架につけた人々のために、とりなしの祈りをささげられました。ここに神の愛、赦しが示されています。この祈りは、わたしたち一人一人のための祈りでもあります。わたしたちはかつては神に背を向け、何をしているかわからないような者だったのです。他者を真実に愛することができない、傷つけるこの多い罪人であるわたしたちのために、主イエスは祈られたのです。わたしたちは、罪赦され、神の愛を知らされた者として、この地上を歩んで行くようにと招かれています。
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