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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2026年 8日 15日 22日 目次に戻る
 2026年2月22日 
「思い悩むとき」加藤豊子牧師
ルカによる福音書12章22−34節



 「思い悩むな」と繰り返されています。「思い悩み」というものは、わたしたちの明日に関わることとも言えるのではないでしょうか。食べ物、着る物のことでなくても、わたし自身の明日、これからがどうなっていくのか。あるいは子ども、親のこれからのことなどを考えると、悩みや不安は尽きないのかもしれません。



 主イエスの言葉は「だから言っておく…」と始まっているので、前の段落からの続きで語られています。愚かな金持ちのたとえ話が語られていましたが、蓄え、財産だけでなく命までも自分のものとした姿がありました。それは神様との関係が絶たれてしまっている、神様を必要ないとする、人間の罪の姿が示されていました。



 烏や野原の花を養い、美しく装ってくださる神は、なおさらわたしたち人間のことを大切に思い、顧みてくださるに違いないではないかと語られます。わたしたちは、神様の恵みを受けるのに値しないようなものです。それにも関わらず、神はわたしたちを顧み、必要なものを備え養ってくださるのです。



 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(32節)

 主イエスの12人の弟子たちは、まさに小さな群れでありました。またルカによる福音書と共に使徒言行録も著わしたルカは、パウロと共に伝道旅行にも加わりました。その時代、強大なローマ帝国の支配下にあって、キリスト者は小さな群れであり、迫害を受け命の危険にもさらされます。この小さな群れは、嵐の中で揺さぶられる小舟のようであり、教会はよくこの舟に譬えられ、様々な嵐を潜り抜けて2000年の歴史を導かれてきたのです。どんなに小さな群れであっても、ここに神様がおられると、神の国、神の支配を見るものとさせていただきたいと願います。
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 2026年2月15日 
「誰のもの」加藤豊子牧師
ルカによる福音書12章13−21節



 「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」(13節)

 大勢の人が周りにいて主イエスの話に耳を傾けている、そのような場面で、突然遺産相続の問題が持ち出されました。こうした人々の日常生活で起こって来る問題に関わり、間に入って調停をすると言う役割を担っていたのが、律法学者たちでした。彼らはラビ、先生と呼ばれ、人々に律法を教えるだけではなく、日常の様々な相談も受けていました。相談内容は、相続、離婚、土地の境界線をめぐる問題など多岐にわたり、わたしたちの周りでも起こっている事柄であります。



 当時、遺産の殆どは長男が受け継ぎ、その長男が他の兄弟たちにも分けるということだったそうです。この人は、自分が思うように分けてもらえない、兄弟関係がうまくいっていない、ということがあるのかもしれません。主イエスは「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」(14節)と言われましたが、その後で、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほどの者を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(15節)と言われ、さらにある金持ちのたとえ話をされたのです。



 「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(20節)

 どんなに財産があり蓄えがあっても、人の命というものはいつどうなるかわからない。これは、すべての人が直面していることです。主イエスはここで、あなたは何を頼りにして生きていますか、あなたにとって大切なものは何ですか、と問うておられます。富や蓄えに問題があるのではありません。それらを自分の力で得た所有物とし、それに頼り、さらに自分の物を増やそうと貪欲に支配されている姿が愚かであり、また神様を見上げることを妨げていると言われているのです。
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 2026年2月8日 
「恐るべき者とは」加藤豊子牧師
ルカによる福音書12章4−7節



 「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」(4節)

 「友人であるあなたがた」と呼びかけています。「友人」とは弟子たちのことです。主イエスは、教師として教えるというよりも、友として横に並んで親しく弟子たちに語っておられる、励ましておられます。「体を殺しても…」これは、すぐそこまで近づいている主イエスの十字架の出来事を意識されて語られている言葉です。そしてやがてその後、弟子たちも同じように迫害を受け命の危険にさらされることになる、そのことをもわかっておられて語られている言葉です。



 「だれを恐るべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。」(5節)

 「恐れる」という言葉は、「恐怖」と「畏怖」、両方の意味を持っています。ただ一人、裁きの座に着かれるお方、神様こそ、恐るべき方であることが語られています。



 「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな…」(7節)

 1アサリオンとは、一日の賃金の16分のTとのことなので、雀一羽は100円ほどになります。当時雀というのは、ありふれた、価値の低いものだったわけです。そんな一羽の雀のことも覚えられている、わたしたちの髪の毛の数まで数えられている。詩編139篇には「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。…」とあります。自分のことは自分が一番よくわかっていると思いますが、実は自分でも知らない、分かっていない部分というものをわたしたちは抱えています。そうした部分も含めて、誰よりもわたしたち一人一人のことをご存知の上で、愛してくださる神様がおられる、だから恐れるな、と呼びかけられています。
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 2026年2月1日 
「隠されているもの」加藤豊子牧師
ルカによる福音書12章1−3節



 「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」(2節)

 覆われていたもの、隠されていたものがあって、それがあらわにされる…そのようなことは、わたしたちの周りでも様々起こっています。主イエスはどのような意味で、また誰に向かってこのことを話されているのでしょうか。



 主イエスの周りには大勢の人々が集まってきて、足を踏み合うほどでした。そのような中で主イエスは先ず、弟子たちに向かって話されたのです。

 「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である。」

 ここでのパン種は、良い意味で使われていません。ファリサイ派の人々の偽善がパン種だと言われているのです。ファリサイ派の人から食事に招待されたとき、主イエスが食事の前に身を清めることをしなかったために不審に思われました。ファリサイ派というのは、律法を徹底して守ることを重んじる人々であり、自らを「ファリサイ」「分離した者」と呼び、自分たちは特別だという傲慢な思いがそこには見られました。「実にあなたたちファリサイ派の人々は、器や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」と、主イエスは大変厳しい批判をされました。



 彼らは激しい敵意を主イエスに抱き、やがてそれは殺意となります。主イエスは決してファリサイ派の人々が裁かれることを願っておられませんでした。食事に招かれれば断らずに、食を共にされたのです。厳しいことを言っておられますが、そこには何とか自分たちの偽りの姿に気づいてほしいと願う、主イエスの姿があります。
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