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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2026年4月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2026年4月12日 
「主の招き」加藤豊子牧師
ルカによる福音書13章22−30節



 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか。」(23節)

 エルサレムへと向かう道、ある人が主イエスに尋ねました。イエス様は「多い」とか「少ない」というような答えはなさらず、そこにいるすべての人に向かってこう言われました。

 「狭い戸口から入るように努めなさい。」(24節)



 山上の垂訓の中にも、似たような言葉、「狭い門から入りなさい。…」とあります。なぜ、神の国、救いへとつながる門の入口が「狭い」と言われるのでしょうか。すべての人に開かれている門であるはずです。しかし、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが…」というパウロの言葉にあるように、イエス・キリストの十字架が掲げられている道は、愚かな、馬鹿らしいことのように見えて、多くの人はその道を行こうとはしないのではないでしょうか。



 神に選ばれた民だからという自覚を持ち、律法を正しく行うことを重んじるユダヤ人たちは、自分たちは救いの中にいる、そう思っていたのではないでしょうか。ですから、「救われる者は少ないのでしょうか」という問いかけはどこか他人事のように聞こえます。自分たちは大丈夫、という思いが透けて見えるようです。「入ろうとしても入れない人が多い」。この言葉は未来のことを言っています。いつの日か主が再び来られる日、戸が閉じられてしまってからでは、遅すぎるのです。そして「後の人で先になる者があり…」とあるように、神様から遠く離れたところにいると思われていた異邦人たちの方が、先に神の国に招かれることになると語られています。



 「努めなさい」という言葉には、競技する、奮闘するという意味もあります。イエス・キリストという戸口から入って始まる信仰の歩みにおいて、「イエスを見つめながら、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と励まされているのです。
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 2026年4月5日 
「共に歩いてくださる主」加藤豊子牧師
ルカによる福音書24章13−27節



 二人の弟子が、エルサレムからエマオという村へ向かって歩いていました。彼らは12弟子ではありませんでしたが、イエス様の側にいたと思われます。十字架の場面では、イエスを知っていたすべての人たちと婦人たちとは、遠くに立ってこれらのことを見ていた、とあります。この二人の弟子もその様子を見ていたのだと思います。



 二人が話し合っているところに、主イエスが近づき一緒に歩き始められました。しかし、二人の目は遮られていてイエスだとは分からなかったといいます。不思議な光景です。



 主イエスの問いに対する二人の答えからは、彼らがイエス様のことを、力ある預言者、ローマ帝国の支配から解放してくださる王として見ていたことがわかります。イエスは死んでしまったと失望する彼らに、主イエスは聖書全体を通してメシアについて説き明かされました。二人は尚も進んで行こうとする主イエスを無理に引き止め、一緒に宿に入り食事の席に着きました。そして主イエスがパンを取り、裂いて二人に渡されたそのときに、二人の目が開け、イエスだとわかったのです。



 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」(32節)

 聖書の言葉が説き明かされるとき、わたしたちの心が燃える、というようなことが起こる。それはまた、主イエスは生きておられる、わたしに語ってくださっているということを知るときでもあります。



 二人の弟子は、暗い顔をして立ち止まりました。失意、悲しみが大きすぎで、側にいるお方が見えないほどに暗闇に飲み込まれてしまっています。わたしたちもまた、幾度となく暗い顔をして立ち止まることでしょう。しかし、主イエスは近づき一緒に歩き、語ってくださるのです。
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