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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2026年7月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2026年7月12日 
「祈り」加藤豊子牧師
ルカによる福音書18章1−8節



 ここに登場する裁判官は「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」と言われています。「傍若無人で尊大な」人柄を表す、ことわざのような言い回しだそうです。



 この裁判官に訴え出たのが、一人のやもめ、夫に死に別れた女性です。聖書において、やもめは保護され、配慮されることを必要としている、弱きものを代表する存在でした。やもめは「相手を裁いて、わたしを守ってください。」と裁判官のところに来ては訴えました。



 当時このような弱い立場のやもめに対しては、夫から受け継いだ土地などの財産を奪おうとしたり、夫の借金の返済のために子どもを売ろうとしたり、というようなことがあったといいます。何の力もないやもめにとって、頼れるのはこの裁判官だけであり、何度も通って訴えたのです。しかし「裁判官はしばらくの間は取り合おうとしなかった。」とあります。けれどもその後、裁判官は「しかし、あのやもめは、うるさくてかなわない…ひっきりなしにやってきて、わたしをさんざんな目に遭わすに違いない」と言って、この裁判を引き受けたのです。



 何のためにこのたとえは語られたのか。「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために」主イエスは弟子たちにこのたとえを話されたのです。



 「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行なわずに、彼らをいつまでもほうって置かれることがあろうか。」

 「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」とは、信じる者の群れのことでしょう。ただ一人のやもめのことが語られているのではないのです。厳しい状況にありながらもあきらめないで祈り続けるその姿はまた、主の日を待ち望みながら生きるキリスト者の姿と重なるのではないでしょうか。
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 2026年7月5日 
「神の国はどこに」加藤豊子牧師
ルカによる福音書17章20−37節



 加藤豊子 主イエスはその宣教の初めの頃、「神の国の福音を告げ知らせなければならない。」(ルカ4:43)と言われました。ここに登場するファリサイ派の人々、そして弟子たちも、何度も主イエスの口から「神の国」という言葉を聞いたことでしょう。しかし、正しく理解されることはありませんでした。



 「神の国はいつ来るのか」とファリサイ派の人々が、主イエスに尋ねました。すると主イエスはこう答えられたのです。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」



 「神の国」は、わたしたちの肉眼で確認できるようなかたちでは来ない、「ここにある」「あそこにある」というようなものでもない、ということです。そして「神の国はあなたがたの間にある」口語訳聖書では「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」とあります。神の国、それは神の恵みの支配するところです。救い主イエス・キリストの誕生によって、もたらされたのです。神の国はもう到来している、すでにあなたがたの間にあるということが示されてます。



 教会はこの世界の厳しい現実のただ中にあって、神の国を示す存在、神の恵みの支配をあらわすところしてたてられています。わたしたちの日々の生活に目を向けるならば、そこにも現実の厳しさというものがあります。様々な困難に直面し、また多くの悩み苦しみがあります。しかし神の国は与えられている、神様の恵みはそこにあるのです。



 後半では、主が再び来られる日について語られています。その日は思いがけないときに来るのです。マタイによる福音書では「だから目を覚ましていなさい。」とあります。



 日曜日、教会で礼拝を捧げる…それは、この世の現実のただ中にあって、わたしたちが神の恵みに生かされていることを表しているのではないでしょうか。
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