【福音宣教】 主が来られる日までの忍耐

こういうわけですから兄弟たちよ、主が来られるときまで耐え忍びなさい」ヤコブ5:7) 

20240929

皆さんにとって1年で最も大切な日はいつでしょうか。誕生日、小学校入学式、成人式、結婚記念日、クリスチャンにとっては洗礼日。韓国では若いカップルは毎日が記念日ラッシュ、初めて出会った日、はじめて二人で映画に行った日、食事をした日、出会って1年経った日、忘れたらたいへんなことになるらしいです。子供にとっては、誕生日とクリスマスとお正月はプレゼントとお年玉がもらえる大切な日です。ところで世界中のクリスチャンと教会にとって最も重要な日は、キリストのご再臨の日、セカンドカミングデイです。キリストの再臨は教会にとって「希望の日となっています。

「主が再び来られる日」は、クリスチャンにとってはついに救いが完成する希望の日、教会にとっては世界宣教の使命を終えるとき、牧師宣教師が失業するとき。。。です。一方、頑なにキリストを拒み続ける人々にとっては最後の審判が始まる日となります。自分は正しく何一つ汚れも罪も汚点も恥とすることもないと神の前で主張できる人は、しっかり申し開きされれば神は公明正大に審判されることでしょう。でも、すべてを知り尽くされている全知全能の神の前にどうどうと胸をはって自分の正しさを主張できる人がどれほどいらっしゃるでしょうか。私には到底、そんな自信はありません。もう子供のころから自覚していました。ですから、十字架で身代わりとなって罪のさばきを受けてくださり、すべての罪の負債を帳消しにして、赦しを与えてくださった神の御子の十字架のあがないを信じました。そのときから、解放と平安を与えられました。皆さんはいかがでしょうか。

1. 兄弟たち、主が来られる時まで耐え忍びなさい(7) 

ここには、地上におかれた教会の忍耐、この世で生きるクリスチャンの忍耐が記されています。

ヤコブはローマ帝国の絶対的な支配下にあって、富める人々、この世の特権階級的な支配者、権力者たちによって虐げられ、さげすまれ、多くの苦悩を強いられている、社会的な弱い立場にあった多数のキリスト者に対して、「私たちの主イエスキリストがその御力と栄光をもって再びあらわれなさるその日まで、忍耐強く耐えぬくように」と励ましています。9節では、さらに「心を強くしなさい。主が来られるのが近いからです」と励ましのことばを伝えています。

*「耐え忍びなさい」と訳されたことばは、「辛抱強く、待ち望む」という意味のことばです。8節「主イエスの再臨は近い」、9節「見なさい、裁きの主が戸口のところに立っています」と強調してるように、主の再臨は、ヤコブのみならず初期キリスト教会に共通する確信であり大きな希望でした。パウロも(ロマ132)、ペテロも(1ペテ47)心から待ち望んでいました。ロマ帝国によってAD70年にエルサエムが滅亡した後に記されたヨハネも、手紙の最後を「主よ、来てください」(黙2220)の祈りで結んでいます。新約聖書そのものが「キリストの再臨」の言葉でとじられているのです。キリストの再臨は聖書の大きな主題となっています。

*しかしながら、終わりの日、再臨の日がいつなのか、いつまで待てばよいのか、どれほどの期間、待ち続ければいいのか、誰にもわかりません。それを知ることは人間には許されていません(マタイ2442)。しかし「主の再臨は目前に迫っている」との意識と祈りをもって、どの時代のキリスト者たちも生きていました。代々の教会もこのメッセージを語り続けて来ました。

*ヤコブは、神の時を待ち望む姿を、農夫に例えて生き生きと描きます。「農夫は大地からの実りを、秋の雨、春の雨が降るまで待っています」(7節)。パレスチナでは、10月後半から4月にかけて雨期となります。秋の雨は激しく強く降り、蒔いた種の発育と成長を促し、雨期の終わりの春の雨は、穀物の実を大きく育て、豊かな実りと収獲を約束します。どんなに焦っても雨を思いのまま勝手に降らすことはできません。穀物は時間をかけてゆっくり育ちますから、成長の過程をひとっとびに縮めることなどできません。種まきから収穫までかなりの時間がかかります。しかし時が満ちれば大きな喜びの収穫を得ることができます。待ち望む期間に様々な苦難や困難や誘惑があるかもしれませんが、主はかならず報いてくださいます。ですから、「涙と共に種をまく者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩篇1265)との喜びを分け合い、祝うことができるのです。

*聖書が教える「忍耐」は、ひたすら歯を食いしばって、じっと苦しさが過ぎさることを我慢するという意味ではなく、患難の中にあっても希望を全面的に失うことのない心を意味しています。なぜなら、神からの希望と一つに結びついているからです。トゥルナイゼンは、苦しさ、痛み、虐待、差別、貧困、さげすみの中にあっても、「それにもかかわらず」神のなさる最善を待つ心であると語っています。嫌なことつらいこと、できれば避けたかったこと、自分の身に及ばなければよかったと思うようなこと、山ほどこの人生にはあります。なんでの人でなくこの私がとつぶやくこともあるでしょう。でも「にもかかわらず」神を待ち望むことを「忍耐」と言います。神を待つことを忍耐といいます。忍耐という言葉は「寛容」(広いこころ)とも訳されます。神が最善をなしてくださると、物事を見る視野を広く、時の経過を考える枠組を広くし、神のまなざしをもって、待ち望みたいものです。

  2. 神のご忍耐

最後に、天におられる父なる神の忍耐を学びましょう。再臨の日が遅い、2000年経ってもまだ来ない。聖書のことばは偽りだったのかと疑問を抱く者も少なくないと思います。いまだに実現しないのはなぜなのか、終わりの日の再臨は、個人的な終末、つまり「死」を象徴しているのだと解釈する人もいるかもしれません。あなたはどう考えますか。聖書の中にひとつの答えが明白に記されています。2ペテロ3:8-9をお聞きください。

「神はあなた方に対して忍耐深くあられるのです。一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」。さらに15節では「私たちの主の忍耐は救いである」とまで記されています。まさにその通りではないでしょうか。忍耐は寛容さとも訳されます。父なる神様は、憐みに満ちた寛容な広い心で、一人も滅びることがないように、時をゆっくり伸ばしておられるのではないでしょうか。約束の日は盗人のように思いがけない時に来ます。「にもかかわらず」、父なる神の忍耐深さの中で、とどめられ、保たれているのです。

私が勝手に想像していることですからお許しください。もしかしたら、再臨の時計の針が10秒前でとどめられているのかもしれません。なぜなら、一人の罪人が救われるために、何十年も必要としません。10秒もあれば十分なのです。それが福音です。もし救われるために「行い」が求められるとしたら、聖人君子のような立派な人になる必要があるとするなら、何十年であってもまだ足りないかもしれません。しかし、救いは行いによるのではなく、信仰の告白によるのです。「あなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるのです」(ロマ109)。さらに「あなたの心で」とあります。イエスの復活を頭であれこれ考えるのでなく、心ですなおに信じるなら、救われるのです。神の国は幼子のようなものに与えられるのです。

10秒で十分、即座に救われるとしたら、それは神によって備えられていた、準備されていたからにほかなりません。永遠の選びと変わらぬ神の愛がその人の人生を導いてくださっているからです。神があなたのため救いを願い、忍耐し、待ち望み、あなたを導き続けてくだったからにほかなりません。それゆえパウロは、「神の豊かな慈愛と忍耐と寛容をかろんじてはなりません」(ロマ24)と、神の恵みに感謝することを忘れてはならないと諭しています。

「主の来られる日は近い」。あなたの大切な人の救いのために、神の愛の御手が10秒前で止められているとしたら。。、天におられる神のご忍耐と寛容さを覚えましょう。

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