【福音宣教】 忍耐の人 ヨブの苦難と信仰

見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。あなた方はヨブの忍耐のことを聞き、主によるその結末を知っています」ヤコブ5:11) 

今日から能登半島大豪雨被災者支援金の募金箱を受付におきます。元旦の大地震からやっと立ち直った人々が、9月の豪雨で再び甚大な被害を受けました。一度折れた心がもう一度 へし折られるという二重の苦悩を味わっています。自然災害という人間の力ではいかんともしがたい苦難のゆえに、持ってゆき場のない苦しみを抱えておられます。神の慰めと平安を心からお祈り申し上げます。

 ヤコブは「試練に耐え忍ぶ人は幸いである。神に約束されたいのちの冠を受けるであろう」 112)と語りました。 試練に耐え忍び続けた人物の代表として、ヤコブは旧約聖書のヨブを取り上げています。 42章にも及ぶヨブ記は、神と苦難と信仰を巡る奥の深い書簡といえます。  

1. ヨブの人となり

ヨブは、神に愛されるしもべでした。「この人は誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」(ヨブ11)。 しかも 7人の息子と3人の娘に恵まれ、羊7000匹、ラクダ3000 頭、牛500くびき、雌ロバ500頭、さらに多くの下僕を所有しており、東の人々の中で一番の有力者・大富豪であったと紹介されています。 神に敵対するサタンが、「ヨブは恵まれているから神を崇めているのだ。もし彼が多くのものを失い、病気で健康が奪われてしまえば、彼はきっと神を恨むに違いない」と、神に語りかけました。 神は「ではお前に任せよう」と許容されました。もちろんヨブはそのような背景を全く知りません。

2. ヨブの7つの試練

結果的に7つの大切なものをヨブは次々と失いました。 彼の全ての財産 10人の子供たち 健康だった体の全身に及ぶ腫れ物 その哀れな姿を見た妻が「神を呪って死になさい」 と非情な言葉を浴びせてヨブのもとを立ち去りました。残ったヨブのも とに3人の友が慰めるために訪ねてきましたが、 彼らの言葉がなお一層ヨブを傷つけてしまいました  周囲の人々からもヨブは忘れ去られ、孤独の中に捨ておかれました。 最も悲痛な痛みはヨブが「神の愛」を感じられなくなってしまったことでした。財産を失い、子供に先立たれ、病に打たれ、夫婦の間が冷え切ってしまうというような、厳しい現実に、ヨブだけではなく、今日においても多くの人々が直面しています。

3. 友からの批難

 ヨブにとってことさら辛かったのは、慰めに来たはずの3人の親友たちからの言葉でした。 「浅薄な友は春に来て、冬に去る」という言葉があるそうです。ヨブのやつれ果てた姿を見て慰めることばを失い、3人は7日7夜、ただヨブのそばに座るしかありませんでした。ヨブはここに至ってついに口を開いて「自分の生まれた日を呪い」始めました(31)。それまでは財産、家族を失っても、裸で生まれたのだからまた裸で帰ろう、「主は与え、主は取られる」(121)と愚痴もこぼしませんでした。妻からの辛辣なことばに対しても「幸いを受けたのだから、災いも受けるべきではないか」(210)と、諭したヨブでしたが、寄り添う友の前でついに心をゆるし、ありのままの嘆きがあふれました。人間は決して強い存在ではありません。いつも心の中に揺れを抱いて生きています。 光と闇を抱え、アンビバレントな思いを抱きながらも、社会的になんとか適応しながら生きています。ですから心を開いて本音を、あるいはもろさを、弱さを言葉にできることは幸いなことであり、必要なことでもあるのです。ところがです!! その時、ヨブの友は、「あなたが罪を犯したから、審きを受けているのだ」と、因果応報論で責めはじめました。あるいは、「これは全能者の訓戒である。神は傷つけるがその傷を包み、打ち砕くが御手で癒してくださる」(517-18)と、教育論を語り、ヨブを説得させようとしました。因果応報論も、「試練は人を成長させる」という教育論も、正論であり、間違ってはいませんが、ヨブの助けにはなりませんでした。かえってヨブを深く傷つけ、彼を孤独へと追い詰めてしまいました。

「私の苦悶の重さが測られたら」(61)、「私の力は石の力ではなく、私の肉体は青銅ではない」(11-12)と、わかってもらえない苦悩をこのように告白しています。
その上、周囲の人々からも彼は忘れられ孤独の中に置かれています。これを「社会的な死」というそうです。家族も友も社会からも、どこからも助けを得ることができないヨブは、もはや神を仰ぐしかない。弱さの中で神に叫ぶしかない。絶望の淵に立たされました。それゆえ、置かれた状況の厳しさゆえに、ヨブは「神の愛」さえ、感じられなくなってしまいました。

4. 絶望の淵で聞いた神の声
この時、神はヨブに対して「なぜ全能者に争うのか」「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」(401)と呼びかけました。神の声を聴き、ヨブは「あなたには全てのことができることを、どのような計画も不可能ではないことを私は知りました」(424)との告白へ導かれました。  自分に理解できないことを愚痴り、神を恨み、神を責め、自分が生まれたことさえ呪ったことを、友に怒りを覚えたことを、心から悔い改めたのです。ヨブの目が開かれ、 今、「私の目があなたを見ました」(5)と、主権者なる神の前にひれ伏したのでした。ヨブは自分を苦しめた友人たちを赦しました(10)。こうしてヨブに、真の意味での癒しと回復がもたらされたのでした。これがヨブが経験した「忍耐」の物語でした。試練の人生であっても神の恵みの御手はヨブを支え、神の慈しみと愛が、彼から離れ去ることはありませんでした。 「いのちを取ってはならない」(ヨブ112)とサタンに命じることができる全能者なる「神の主権」が変ることなく一貫してヨブの生涯を守り、貫き、支えていたからにほかなりません。

5. 神の慈しみと愛
物が豊かであっても人を支えません。子供や妻や家族や友人と言った人の絆も思っているほど強くはない、弱いものです。最後は神との絆だけが、人を支えていくのではないでしょうか。どんなときでも「神の愛」を疑わず、信じることです。神の愛に捕えられていることを信じること、感情的に感じられなくても、理屈では割り切れなくても、矛盾していても、不合理であっても、信じること、信じることは神と人とを結ぶ絆です。信じることは希望を生みます。「いったいどこに私の望みがあるのか」(1715)と、ヨブが希望を見いだせなくなったところから、彼の心は音を立てて崩れてしまいました。「御子さえおしまず賜った神の愛」を、心に刻みましょう。「私たちに与えられた聖霊によって 神の愛が私たちの心に注がれている」(ロマ55)ことを信じましょう。誰もキリストの愛から私たちを引き離すことができない(ロマ838)のですから。

6.
 社会的な死を死なせないように
ヨブの苦悩の一つは「社会的な死」と呼ばれる孤独でした。現代社会は人と人との絆が薄れ、ほどけ、断ち切られ、喪失している「無縁社会」になっていると学者は警告しています。誰からも看取られず死を迎えていく「孤独死」も年間3万件に達しているそうです。引き取り手のいない遺骨がどの行政機関にも多数保管され、対応に苦慮されているそうです。

「社会的な死を死なせない」ように、私たちにできうることは真の意味での共感と連帯ではないでしょうか。共感とは他者に関心を寄せ、人の痛みを自分のこととして「想像していく心」のことと言えると私は思います。連帯とは「私たちは皆、同じ罪人であり 許しを必要としているという共通の意識とその罪人のために キリストが十字架について 死んでくださったという神の恵みの共有に基づく 」連帯に生きることを意味しています(榎本師)。 人と人との絆はそれほどつよkはなく、私利私欲、損得勘定と好き嫌い感情にも大きく左右されるもろいものです。だからこそ、変わることのない神との絆、神とのつながりを回復することが今こそ求められるのではないでしょうか。

御子さえ惜しまずに与えてくださった神に信頼して生きていく時、すべてを知り尽くすことができなくても、計り知ることのできない神の御心を受け入れ、神の前に砕かれつつ、 なお望みを抱きつつ、歩み続けていくことができるのではないでしょうか。人の絆は薄れ断ち切れることがあっても、信仰によって結び合わされた神との絆は永遠なのです。

「いつまでも続くのは信仰と希望と愛です」(1コリント1313

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