「イエスは道を通りながらアルパヨの子レビが収税所に座っているのをご覧になって、わたしについて来なさいといわれた」(マルコ2:13-15)
カペナウムに戻られたイエス様はアルパヨの子レビを第5番目の弟子として「従ってきなさい」と招かれました。彼は後にマタイの福音書を後世に残した人物です。マタイの本名はアルパヨの子レビ。職業は収税人。収税所(今日の税関・
税務署)に勤める役人でした。 ガリラヤ地方は陸上交通の中心地の一つで、シリアのダマスコ からカペナウム、シャロン 平原、地中海沿いのガザそしてエジプトにまで至る、当時世界最大の道路の一つが整備されていました(バークレ)。カペナウムはヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスによって支配されていた国境の町で、税関が置かれていました。人々は税について詳しくありませんから、税関で勤める収税人たちは取れるだけ多くの税金を取って私服を肥やしていたため、同じユダヤ人たちからは軽蔑され蔑まれ憎まれていました。当時のユダヤ教の指導者たちからも
「収税人と強盗」「収税人と罪人」と同列に扱われ、神殿の礼拝に参加することも許されませんでした。
1. 3つの眼差し
レビは「収税所で座っていた」と記されています。座っているとは
税関事務所で街道を行き交う人々をじっと監視している姿と言えます。収税人に対して人々は軽蔑
憎しみ、さげすみといった冷ややかな敵対的差別的な視線を浴びせていました。一方
見られる側のレビたち収税人もそのような視線に反発し、ますます監視の目を光らせ、同じ国民同士でありながら敵対関係さえ抱き、なおさら腹いせに税を貪り取るという悪循環に陥っていました。そんな中で主イエス様だけが収税所で座っているレビをじっと見つめていたとあります。
イエス様の眼差しは、憎しみ 怒り
敵対心とは裏腹の慈愛のまなざしでした。 後に、イエス様を3度も裏切ってしまったペテロをそれでもやさしく見つめ赦してくださったあのまなざしでもありました。
収税所で勤めるためには外国語、特にギリシャ語に堪能であり、数字にも非常に強く、税関の様々な事務処理にも長けている優秀な人物でなければ採用されませんでした。才能があるからこそ高収入が保証される収税所の役人という道を彼は自ら選択したのでした。しかし富や権力や贅沢な暮らしと引き換えに、周囲の人々からは罪人呼ばわれされ、軽蔑され、異邦人の仲間とみなされ、宗教的にも拒絶され、虚しさを内に抱えていたと思われます。「座っていた」という言葉にはそのような意味も含まれていたといってもよいのではないでしょうか。
主イエス様だけがそんな彼をじっと見つめてくださっていたのです。
人の視線の冷たさや鋭さに、怖さを覚えるような時が人生にはあります。けれどもイエス様の眼差しを私たちは知っています。詩篇の記者が「御翼の陰」で覆われる安らぎを歌っているように、イエス様の眼差しがやさしく私たちを見つめていることを、冷ややかな他人の視線の中にあっても、心の安らぎと力とさせていただきましょう。
「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」(詩17:8)
第2番目に、イエス様が「私についてきなさい」と招いた時、レビはすぐに立ち上がって従いました。「立ち上がって」という言葉には税関での仕事を辞し、収税人からは足を洗ってしまうという意味が込められています。最初の弟子ペテロ
アンデレ ヤコブ
ヨハネは漁師でしたから何かあれば再びその仕事に戻ることができました。しかし、レビは一旦、仕事を降りればもう二度と戻ることはできませんでした。いわば背水の陣で彼はイエス様に従う決心をしたわけです。彼は収税人という一つの仕事を手放しました。今までのような贅沢な楽ちんな生活から一転して貧しくなりました。貧しくはなったけれども、心の安らぎと自由を得、やましさから解放されました。確かに目に見える一つの仕事を失ったアルパヨの子レビでしたが、もっと大きな仕事を得ることができました。イエス様の生涯とことばそして御業を書き記すという働き、すなわちマタイの福音書を後世に残すことができたのです。お金を数え、帳簿に欲にまみれた数字を記入していた同じその手とペンで。
第3番目に、15節でイエス様は「彼の家で食卓に着かれた」とあります。ルカでははっきりと「イエスのために大振る舞いをした」「収税人や大勢の人たちが食卓についていた」と記してあります。そんなにたくさんの人々を宴会に招くだけの広い家と財産をレビが蓄えていたことを意味しています。彼もまたそこそこの悪党、不正な取り立てをしていた一人であったことが分かってきます。しかしイエス様を信じたその時から彼は変えられました。かつての同じ収税人仲間や罪人と呼ばれていた当時社会から虐げられ排除されていた人々を大勢、家に迎えていわば食事付きの「伝道会」を開いたのです。イエス様の素晴らしさを、救いの喜びを伝えたのでした。福音の宣教のために、彼は持てるものを捧げ、天に宝を積むものとされました。さらに驚くことに、どんなに素晴らしい神のしもべとなったとしても、後世にマタイの福音書というイエス様の働きを残す人物となったとしても、彼は生涯「収税人マタイ」(マタイ10:3)と、自らを名乗っていました。暗い過去の自分の経歴など隠しておきたいものです。知られたくないに違いありません。そっと闇の中に葬ることもできたでしょう。しかし、彼はかつての収税人が、今は主イエスのしもべとして生きている
そのことを喜びとし誇りとし、福音を決して恥とはしていないのです。マタイとは「神の賜物」というクリスチャンネームです。「神の賜物」マタイという名の方がはるかに名誉かもしれませんが、あえて彼は不名誉な「収税人」マタイと名乗りました。キリストにある神の恵みの豊かさを知ったからこそ、自分がどこから切り出され、どこから掘り出されたものであるか、そのことを証しし、
自らの恥よりも、すべての栄光をキリストに、お返ししたのでした。
「主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、
大切なことはイエス様を信じついてゆくことです。召された時のままで、ありのままのその罪深い姿のままでイエス様について行くことです。ある先生が著書の中で、日本人がキリストを信じられない理由を二つ紹介していました。1つはイエス様が行った数々の奇跡が信じられないという理由です。するとこの先生は「今は奇跡を信じられなくてもいい
。イエス様を信じて救われれば段々とわかるようになる」と答えているそうです。もう一つは家の宗教があり
仏壇もあるのでクリスチャンにはなれないという理由です。先生は同じように「仏壇はそのまま置いておきなさい。30年 50年 100年経てば気づいたらなくなっているから」と導いているそうです。福音が心の中に入るとそんなことはおのずと解決していくものだと。実におおらかですね。きよめ派の著名な牧師だけになおさら驚きました。きっとこの牧師は福音の力を確信しているのだと思います。福音の力は神の力、神の御国の恵みの力は、ちまちましていません。大きな力で、今抱えている問題も、偶像礼拝の問題も経済的な問題も自分の心の弱さも、こじれた人間関係も、で傷ついた破れも、福音は打ち破っていつしか解決してくださっています。傷も破れも福音は癒しつつみ回復してくださいます。大切なのは信じ信頼し、イエス様についていくことです。
あなたも今、様々な悩みや問題を抱えて、たちあがれず、座り込んでしまっているかもしれません。そんなレビの一人かもしれません。であるならあなたを今、見つめているイエス様の声を聞かせていただきましょう。
「わたしについてきなさい」それがすべてです。この招きこそが「福音」そのものです。