今月の一言(2025年)

■2025年3月 『祈りの家』

 わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。(イザヤ書 56章 7節)

3月16日(日)に教会定期総会を予定しています。今回の総会では「LED照明への切り替えの件」が上程されます。教会建物の照明をすべてLEDに交換する議案を審議するわけです。
 政府は、地球温暖化対策計画(平成28年5月13日閣議決定)に基づいて、2030年までにすべての照明をLEDへ計画的に変更することを求めています。このため一般照明用の蛍光ランプの製造・輸出入は、2027年までに段階的に廃止されます。計画の要点は、地球の温暖化を防ぎ、蛍光ランプに用いられている水銀から健康と安全を守ることなどがあります。LEDに交換した際のメリットは、環境保護とともに電気代の軽減(蛍光灯照明に比べて約半額)や照明の寿命が長いこと(蛍光灯に比べて約4倍)などがあります。社会的に回避できない事案になっているとおりです。
 当教会の切り替えに伴う費用は約200万円です。役員会は、25年度より2年から3年の期間を設けて指定献金を募り、順次照明の切り替えを行っていきたいと考えています。

 「教会」といいます。教会は十字架を掲げた建物のことではありません。主に召され、これに応える者たちの集まりです。キリストを頭とする信仰共同体が教会です。同時に、信仰共同体が集まる建物は必要です。
 神学生時代のことです。奉仕に行きました。礼拝堂に入った瞬間「ジャリ」と砂をかみました。汚れていたのです。主の日の朝なのに・・・。その教会は牧師と役員会が不仲でした。私には礼拝堂の汚れが教会の痛みを象徴しているように思えました。そして、とても不快でした。主に礼拝をささげる尊い場所が、汚れていていいわけがないのです。
 贅沢なことは必要ありません。しかし、適切な管理運営はしなければなりません。この度の件は、教会が社会の現実にふさわしく対応していくとともに、祈りの場所を守る意味があります。役員会は信仰共同体を大事に考えています。だから、建物も大事にしたいのです。
 お金が必要になります。それぞれに事情があります。できるところを喜んでささげていきましょう。信仰共同体を集め、命を与えているのは主です。建物を問えば、先人たちの祈りと労苦の数々があります。今、私たちにできることを精一杯していきたい。力を合わせ、心を込めて、皆で前進していきましょう。


■2025年2月 『教会役員とは』

 奉仕者たちも品位のある人でなければなりません。二枚舌を使わず、大酒を飲まず、恥ずべき利益をむさぼらず、清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません。(テモテへの手紙 一 3章~9節)
 
 3月16日(日)に教会定期総会を予定しています。この中で役員選挙が行われます。今年から半数改選となるので、5人の役員を選出することになります。
 冒頭に掲げたテモテへの手紙一は、テモテへの手紙二、テトスへの手紙と共に「牧会書簡」と呼ばれています。教会生活のあり方や、伝道者をはじめとする教会に仕える者たちが、どのような人物でなければならないかを教えるものです。
 述べられている「奉仕者」を今日の役員と考えることが出来ます。具体的な要件の最初に「二枚舌を使わず」とあります。これは意味の深いことです。相手によって言葉と態度を変えます。当たり前のように嘘をつくことでしょう。このような二枚舌とまではいかなくても、心に思っていることと口で言うことが違っていたらどうでしょう。やはりその人を信頼することは出来なくなります。もし役員がこのような人物であったらどうでしょう。教会自体が信頼できないものになります。
 教会は信仰と信頼で築かれています。嘘、偽り、我がまま、傲慢、思いやりのなさ、このようなことで傷つき、壊れていきます。
 テモテ書で述べられている事柄は人間的な態度や生き方です。実務的な能力については触れていません。教会は信仰共同体です。キリストを信じる者たちの霊的な集まりです。この集団に仕える役員は霊的であることが求められているのです。霊的であることの内容は、イエス・キリストに対する明確な信仰と、教会に対する誠実な愛です。
 世の中には、笑顔の下に本心を隠して生きることがあるでしょう。しかし教会はそうではありません。主を信じ教会を愛するとき、言葉が変わります。その人の口から隣人を生かす新しい言葉が生まれます。この言葉が集まるとき教会は力を持ちます。キリストを指し示して共に歩む、救いの力を持つのです。

 役員だけではありません。実務は二の次と言うのでもない。まず、主に対する信仰と、教会への愛を中心に据えたいのです。教会は、牧師、役員、教会員、皆で担っていくものです。私たち一人一人が、キリストに結ばれた霊的共同体の造り手であり、担い手なのです。


■2025年1月 『無力な救い主』

 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
 多くの痛みを負い、病を知っている。
 彼はわたしたちに顔を隠し
 わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
 (イザヤ書 53章3節)

紀元前586年、バビロニアの王ネブカドネツァルによってユダ王国は滅亡しました。神殿は焼かれ、都は廃墟になった。そして民はバビロニアに連れて行かれます。以後、捕囚の暮らしは50年間続きます。
 捕囚の末期です。ひとりの預言者が神から遣わされました。その名はイザヤ。彼は告げます。

 主が油を注がれた人キュロスについて
 主はこういわれる。
 わたしは彼の右の手を固く取り
 国々を彼に従わせ王たちの武装を解かせる。
 扉は彼の前に開かれ
 どの城門も閉ざされることはない。
 (イザヤ書45章1節)

 〞ペルシャの王が世界を平定する。神が遣わした救い主だ。我々はペルシャの王キュロスによって救われる〟こう告げたのです。歴史をたどればこの預言は実現します。キュロスはバビロニアを破り、ユダの民を捕囚から解放します。しかしイザヤは、述べた前言を翻すように告げます。それが53章の言葉です。 
名もない男が現れます。地味で風采は上がらない。多くの心の痛みを知り、体には病がありました。人々から嫌われ、相手にされません。しかし男は、黙々として神と人に仕えます。馬鹿にされても無視されても、神と人を愛し続けました。イザヤは〞私たちはこのような人によって救われる〟と預言したのです。そして新約聖書は、粗末な家畜小屋で誕生した主キリストを指し示しています。

 私たちは力を求めます。健康、学歴、能力、お金、社会的な立場、人との繋がり等々。これらが充分でなければ、この世ではとても生き難くなります。同時に、力を求めると力のとりこになります。そして力は、より強い力の前には弱いものになります。
 御子は無力な姿で生まれました。神さまに、「できる・できない」「持っている・持っていない」このような評価はありません。ひとりのあなたをひたすら愛しているのです。主キリストを信じることは、神さまと繋がることです。ここで人生が変わります。力に服する生き方ではなく、力を用いる人生に変わります。クリスマスのこの時、私たちは何を軸として歩むのか、このことが問われています。