■2026年2月 『来年の今ごろは・・・』
「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。(創世記 18章10節)
役員会では、来年度の準備が始まりました。伝道計画、教会の日常的な営みの検証、支区教区の負担金。今年度の経済的な実績や教会員の異動、等々。現状を踏まえて将来を望み、最善の現在を探しています。
教会の営みは地味です。家庭生活に似ているかもしれません。当たり前な日常の繰り返し。この中に喜怒哀楽があり、課題があり、チャレンジがあり、人が成長していきます。そして平凡な日常は膨大な努力によって維持されるものでしょう。教会も同様です。主の日の礼拝が中心です。祝祭の日があります。愛する人を天に送る日があります。新来会者がやって来ます。やがて信仰を言い表す日が来るのです。私たちの信仰と努力が重なって教会は維持されています。このような日常の一つ一つに主の大きな恵みがあります。
このようなわけで、平凡な日々の積み重ねを大切に考えています。そして同時に、このような考え方の中に〝落とし穴〟があることも感じるのです。
神さまはアブラハムに息子を与えることを約束しました。しかし約束は果たされることなく、夫婦は歳をとりました。そしてこの日、神は旅人に姿を変えて訪れて「来年の今ごろには、男の子が生まれている」と告げます。
サラは笑いました。この笑いは神を侮る笑いです。冷たい笑いです。「何をいまさら、バカバカしい。ケッケッケ・・・」。
「来年の事を言うと鬼が笑う」と申します。鬼も悪魔も笑いません。人間が笑うのです。現実に心を奪われて、神の言葉を笑うのです。
教会にとって落ち着いた日常を作って行くことは重要です。熟慮を集めることは当然でしょう。そしてこの中で、私たちの思いを超える神の御業があることを覚えたいのです。降って湧いた幸運を期待するのではありません。主の教会を私たちの思いや考えで支配してはいけないのです。教会の頭は主キリスト。この方が、人の思い超える御業を現します。教会はキリストの生き証人であり、主の御業に与かって生きる信仰共同体です。
先立って歩む主を信頼しましょう。このお方に信仰の心を合わせ、考えと行いを集めましょう。来年の今ごろ、私たちの思いを超える主の御業を仰ぎ、共に喜びたいたいのです。
■2026年1月 『宗教2世』
未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。(コリントの信徒への手紙一
7章25節)
「安倍晋三銃撃事件」の裁判で求刑が出ました。極刑が回避された点については、被告人の生い立ちの悲惨さが考慮されたのではないかと言われているとおりです。この事件では、これ以前にもあった「宗教2世」という言葉が広く用いられ、一般化して行きました。そこで〞宗教〟を考えてみたいと思います。
宗教は広範な事象を含むために、厳密には定義できないとされています。礼拝をささげることも宗教ですが、髪の毛を切らないことも宗教になります。団体を形成する宗教の多くは救いを語ります。「〇〇さまを信じれば救われます」というようなことです。この場合、絶対を主張することになるでしょう。「○○さまを信じれば、たぶん救われるでしょう」これでは救いになりません。「○○を信じれば救われる」「○○をすれば必ず救われる」こうなります。問題はここです。絶対でない者が、自明の事柄として絶対を語ります。ここで宗教がいかがわしくなるのです。
私たちであれば、キリストは絶対です。そして信じる私たちは、欠けのあるただの人間です。ただの人間である私たちが、キリストを信じて生きているのです。このけじめをつけることが重要でしょう。
信じて生きるとき人は、信じている者に似てきます。自分自身の生き方や他者に対する言動が、主キリストのよしとするところかどうかを検証してみる、このようなことも求められていると思います。
宗教2世という言葉には悲劇的な響きがあります。しかし、そのようなものばかりではありません。私は子供のころ祖父に連れられてよく神社仏閣に行きました。拝殿の前で帽子を取り、手を合わせて拝礼する祖父の姿を見て育ちました。その姿勢は祖父の生き方と重なって、私にとっては掛け替えのない宗教教育になっています。私たちの信仰を問えば、必ず誰かから福音という善いものを教えていただいて今日を迎えているはずです。
パウロはけじめの付いた人物でした。主の指示と自分の意見を明確に区別しています。
神と人間の違いをわきまえるとき主は、土の器に過ぎない私たちを、福音を伝える恵みの器として用いてくださいます。御言葉に立ち返りつつ、主に生かされていることを覚え、宗教の明るさを取り戻したいと思うのです。