マルコ8:22~26「神の恵みに留まる」 25.03.23.
序)
神を信じる者であるなら、誰もが「神の恵みを受け続けたい」と願われるのではないでしょうか。そして、「その神の恵みに留まり続けたい」とも願われると思います。今朝は、その神の恵みに留まることについて、共に教えられたいと願っています。その前に、今朝の箇所と似た出来事が以前にもありました。覚えておられるでしょうか。それは7:31~37の箇所です。7章では、耳と口の不自由な人が群衆の中から連れ出されました。今朝の箇所は、盲人が村の外に連れ出されたのです。また、今朝の箇所はイエス・キリストが唾をつけ両手を当てられました。7章では、33節に「ご自分の指を…舌にさわられた」と書かれています。これも似ています。さらに、7章では「誰にも言わないように」と言われましたが、今朝の箇所では「村に入っていかないように」と、両方とも禁止命令を出されています。しかし、異なる点もあります。7章では障害を持たれている男性はすぐに癒されましたが、今朝の箇所の男性はそうではありませんでした。24節を読みますと、ぼんやりとしか見えていないようです。そして、25節に再び両手を当てられることによって、はっきりと見えるようになったのです。ここで一つの疑問が生じます。それは「なぜイエス・キリストは一度で癒されなかったのか」という疑問です。何故でしょうか。実は、これが今朝の箇所を理解する手がかりの一つです。
1)繰り返しによって
神の恵みに留まる第1は、同じことの繰り返しによってであるということです。何故イエス・キリストは一度で癒されることをされなかったのでしょうか。そのことを理解するには、その前の記事を知る必要があります。その前の記事は、弟子たちの悟りの鈍さが描かれています。彼らは五千人の給食や四千人の給食の出来事を身近で見ていながら、悟ることができなかったのです。私たちは、この記事を読んで弟子たちの悟りの鈍さを知ります。そして、「こんなことも分からないのか。私だったらすぐに分かるのに」と思ってしまいやすいのではないでしょうか。しかし、聖書はこのマルコの福音書を読んでいる人に対して、「見えているようでも実は見えていない。分かっているようでも実は分かっていない」というのを指摘しているのです。私たちは「神や聖書のことを分かっている」と思っているかもしれませんが、実は分かっていないことの方が多いのです。そのことを聖書はここで語っているのです。
では、私たちが神や聖書のことをさらに分かる者となるにはどうすれば良いのでしょうか。25節に
「それから…当てられた」と書かれています。イエス・キリストは、同じことをもう一度繰り返されたのです。この盲人は、繰り返されることによって見えるようになったのです。このイエス・キリストの行為を通して、聖書は私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。それは、繰り返すことによって見えるようになる、悟るようになることを伝えようとしているのです。「私たちは一度聞けば悟ることができるのか。一度経験すれば悟ることができるのか」と言いますと、決してそのような者ではありません。一度や二度で悟ることのできない者です。同じことを繰り返し受けることによって、徐々に悟っていくのです。
人間の成長もそうです。殆どが同じことの繰り返しです。「1度学べば充分」というものではありません。「1度学べば理解できる」という人がおられますが、そのような人は「天才」と言われ稀です。多くの人は反復して学んでいきます。Ⅰコリント3:6に、信仰は神が成長させてくださることが書かれています。自分の力で信仰を成長させるのではありません。神なのです。ですから、「信仰の天才」と言う人は一人もいません。それはエリヤから見ても分かります。エリヤは神の預言者として遣わされた人です。彼は預言者の代表的な人物です。彼は死ぬことなく、神によって挙げられた人です。それほどすばらしい人でした。エリヤはバアルの預言者とも対決し勝ちました。ところが、その後アハブ王の妻イゼベルを恐れて逃げて身を隠しました。彼は神のみわざをよく知っていたのですが、完全には知ることができませんでした。エリヤ自身も神の繰り返しの取り扱いの中で、神のすばらしさを知り成長させられた人だったのです。
私たちもそうです。「神を知っている」と思っていても、完全には知り得ないのです。私たちもエリヤやイエス・キリストの弟子たちと同じように、繰り返し神の取り扱いを受けることによって、神のすばらしさを知り成長へと導かれていくのです。私たちの日々の生活の殆どは、同じことの繰り返しです。しかし、その同じことの繰り返しであるような日々の生活も、実は神の恵みの一つです。何にしてもそうですが、成長するには繰り返しが必要です。信仰も同じです。同じことの繰り返しを通して、私たちの信仰は神によって成長させられていくのです。
2)応答することによって
神の恵みに留まる第2は、神の恵みに応答することによってです。この盲人はイエス・キリストにもう一度手を当てられ、「じっと見ていると目がすっかり治って全てのものがはっきりと見えるようになった」と25節の後半に書かれています。彼は見続けていたのです。ここに続けることの大切さを知らされます。最初この盲人は、イエス・キリストによって村の外に連れて行かれ、両目に唾をつけて当てられ「何か見えますか」と尋ねられました。ここでイエス・キリストは見ることを求められました。そして、この男性はそのことばに従って見たのです。すると、ぼんやりではありますが見えるようになりました。そして、再びイエス・キリストに触られた後も、イエス・キリストのことばに従ったのです。すると、はっきりと見えるようになったのです。「目が見えるように癒されているのだから当たり前ではないか」と思われるかもしれません。確かに「当たり前」と言えば当たり前です。しかし、その当たり前のことがなかなか実践できないのが私たちではないでしょうか。ローマ10:17に「 」と書かれています。これは聞いて従うことが前提として話されています。この男性が「じっと見ている」というのは、イエス・キリストのことばに従っていたことを表してもいます。
使徒13:43の最後に「二人は彼らと語り合い、神の恵みに留まるように説得した」と書かれています。その時も話しましたが、私たちは「神の恵み」というとき、神から何かを受けることを思い浮かべてしまいます。それも神の恵みの一つです。ここでパウロとバルナバは、「その神の恵みに留まるように」と語っているのです。すなわち、神から受けた恵みに対して正しく応答することを勧めているのです。ともすると、私たちは自分の行いについては「神の恵み」と捉えにくいのではないでしょうか。むしろ、「それは神の恵みではなく私の犠牲」と思ってしまいやすいのではないでしょうか。神に従うとき様々な霊的戦いを強いられます。その霊的戦いに耐え続けているとき、「犠牲を払って神に従っている」と思ってしまいやすくなります。ですが、聖書は「それも神の恵みの一つである」と語っているのです。何故でしょうか。それはイエス・キリストの十字架を信じ、自分の罪が赦されているからです。その大前提があるから、私たちは神に聞き従うことができるのです。この神の赦しという恵みがなければ、私たちは神に聞き従い続けることはできないのです。聖書は多くの人が登場します。その中には神の祝福を受ける人もいれば、神の祝福を受けられない人もいます。神の祝福を「神の恵み」と捉えることができます。何処に違いがあるのでしょうか。その神の恵みに対しての応答の違いです。パウロとバルナバが「神の恵みに留まるように」と勧めたのは、「神の恵みに正しく応答し続けるように」ということです。
ユダヤ教指導者らと弟子たちの違いはここです。ユダヤ教指導者らは、神の恵みに留まろうとはしませんでした。では何に留まろうとしていたのでしょうか。それは自分の考えです。「留まる」ということばは何を意味しているでしょうか。私たちは何処かに留まろうとすることがあります。何故そこに留まろうとするのでしょうか。そこにはいろいろあると思います。「楽しいから」とか「安全だから」とかなど。私たちは危険な所に留まることはしないのではないでしょうか。「危険な場所は少しでも早く離れたい」と思うのではないでしょうか。そのように考えますと、留まるというのは「自分が信頼できる場所」ということでもあります。ユダヤ教指導者らが何よりも信頼していたのは自分の考えだったのです。
私たちは何かをするとき、計画を立てたり計算したりします。それ自体は悪いことではありません。ですが、それに固執してしまいますと危険です。箴言3:5に「 」と書かれています。最終的には神に寄り頼むことです。では、「神に寄り頼む」というのはどういうことでしょうか。それは「祈った結果を受け入れる」ということです。祈り備えて自分の願いや考えと反対の結果が出ることがあります。そのとき、その結果を受け入れることが「神に寄り頼む」ことでもあります。エレミヤ42:1~3に、ヨハナンがエレミヤに「自分たちがエジプトに行くことが主の御心であるかを祈ってほしい」と願ったことが書かれています。そして、5~6節に「 」と告げたことが記されています。10日後に主のことばがエレミヤに下ったので、エレミヤはヨハナンたちを呼び寄せて、「エジプトに行かずこの地に留まれ」と告げました。するとヨハナンたちは、「主はそのようなことを告げていない。これは私たちをエジプトに行かせないようにするためのことばだ」と言って、43:7に「エジプトに行った。主の御声に聞き従わなかったのである」と書かれています。ともすると、「祈った結果を受け入れない」ということは、私たちにも起こり得るものです。ですが聖書は、「それは神に対して正しい応答ではない」と語っています。神の恵みに留まる大切なことは、神の恵みに正しい応答し続けることです。
結)
神の恵みに留まるというのは、神から何かを受け続けるということではありません。私たちの日々の生活は同じことの繰り返しで平凡なものかもしれません。ですが、その平凡の中に神の恵みが注がれているのです。その繰り返しによって、私たちの信仰は神によって成長させられていくのです。また、神に従い続けることが「神の恵み」というよりも「私の犠牲によって」と思ってしまいやすくなります。自分が犠牲を払うことを「神の恵み」と受け取ることは難しいでしょう。ですが、聖書は「それも神の恵みである」と語っているのです。パウロもそうでした。彼は3度も神に「肉体のとげを取り除いてほしい」と祈りました。その祈った結果はどのようなことばだったでしょうか。「わたしの恵みはあなたに十分である」というものでした。パウロの祈りに対する神の答えは、「神の恵みとして肉体のとげを受け入れよ」というものです。パウロにとっての正しい応答は、肉体のとげを受け入れることだったのです。確かに腑に落ちないことは多々あることでしょう。でもそれが、「私に対する神の答えであり恵みである」と受け止めて、受け入れられるように祈っていきたいものです。
マルコ8:1~10「神の栄光が現される」 25.03.02.
序)
昨日から年度末の月に入りました。今年度の歩みを神によって支え導かれたことに感謝しつつ、新年度の歩みも神に恵みによって支え導かれたいと願います。今朝の箇所は「四千人の給食」というタイトルが付けられている箇所です。「五千人の給食」というタイトルが付けられている箇所は知っておられることと思いますが、「四千人の給食」からメッセージをされるのは少ないと思います。五千人の給食からは、イエス・キリストの「あなたがたが」ということばを弟子たちが誤解して捉えてしまったがために、消極的や否定的なところに目が向けられてしまったことを見ました。そして、みことばを正しく捉えることの大切さを私たちは学びました。今朝はこの箇所から、神の栄光が現されるために、イエス・キリストはどのようなことをされるのかを学びつつ、私たちの日々の歩みに適用されればと願っています。
1)用いてくださる神
まず、神はご自身のすばらしさを現すために、私たち一人ひとりを用いてくださるお方です。その前に、この箇所の背景を見てみたいと思います。1節の冒頭に「そのころ」と書かれています。この「そのころ」とは、いつのことを指しているでしょうか。文脈から考えますと、その前に書かれている出来事です。それは先週の箇所です。先週の箇所の31節には「 」と書かれています。イエス・キリストは、ツロの町から北に進まれてシドンの町を通ってから、南に下りデカポリス地方に行かれました。31節には「デカポリス地方を通り抜けてガリラヤ湖に来られた」と書かれています。どのような道を辿られたのかは分かりませんが、「デカポリス地方の中を通り抜けてガリラヤ湖に来られた」と、今私たちが用いています聖書にはそのように書かれています。実は、ここは議論のある所です。と言いますのは、以前の聖書には「それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた」と訳されていました。直訳しますと、「ガリラヤ湖へ、デカポリス地方の真ん中へ」となります。そのため、私は「デカポリス地方のガリラヤ湖畔」と理解しています。ですから、「先週の箇所も今朝の箇所もデカポリス地方での出来事」と捉えています。そのデカポリス地方とは、何処に位置するのでしょうか。地図⑪を見ますと、ガリラヤ湖の南東に位置することが分かります。五千人の給食は、ルカ9:10に「ベツサイダという町へ」と書かれています。このベツサイダは地図⑪を見ますと、ガリラヤ湖の北に位置しガリラヤ地方の境に位置しています。ところが、今朝の箇所はガリラヤ湖の南部での出来事です。ですから、位置的にも全く違う場所でなされたのが四千人の給食です。
ですが、この地方ではある出来事がありました。覚えておられるでしょうか。それは5:1以降に書かれています汚れた霊につかれた男性の癒しの出来事です。イエス・キリストによって癒された男性は、「イエス・キリストと一緒に行動したい」と願いました。ところが19節を見ますと、イエス・キリストは男性に「 」と話されました。そして20節には、「 」と書かれています。イエス・キリストが再びデカポリス地方に来られたときに大勢の人々が集まったのは、「7:36に書かれています人々が言い広めたから」と思われる方もおられるかもしれません。ですが、イエス・キリストは「このことはだれにも言ってはならない」と命じられたのです。そのイエス・キリストの命令に反して、人々は言い広めてしまったのです。そのような流れですから、「人々がイエス・キリストの命令に反して言い広めたものを神が用いられる」とは考えられないことです。では、神は誰を用いられたのでしょうか。考えられることは、5章に書かれています汚れた霊をイエス・キリストによって癒された男性です。何故なら、5:19にイエス・キリストは「あなたの家…知らせなさい」と命じられているからです。7:31に書かれている「再び」ということばは、この男性の出来事を指し示していると考えられます。
今朝の箇所は、その汚れた霊から癒された男性のことは何も触れられてはいません。しかし、汚れた霊から癒された男性は、自分が生活している地でイエス・キリストの証し人として生き続けました。そして、神はその男性の証しを用いられたのです。証し続ける。そこには大きな力が必要です。以前見ましたが、使徒14:1に「イコニオンでも、同じことが起こった」と書かれています。何が同じことが起こったのかと言いますと、福音を語った後に迫害されるということが繰り返し起こったのです。この箇所を見たときにも話しましたが、この前の箇所はピシディアのアンティオキアでの出来事が書かれています。そして、51節に「 」と書かれています。聖書地理に乏しいと、「ピシディアのアンティオキアの次はイコニオンの町に行ったのか」と思って終わってしまいます。ところが、学び会のときに学びましたが、ピシディアのアンティオキアからイコニオンの町までは直線距離で約130㎞です。今の道を車で走りますと約160㎞ということです。決して1日で行ける距離ではありません。イコニオンの町に着くまでに、パウロとバルナバは途中の町で宿泊したと考えられます。彼らのことですから、その町でも福音を語りますが迫害を受けるという繰り返しを経験したことでしょう。それが14:1の「イコニオンでも、同じことが起こった」ということばと考えられます。すなわち、ピシディアのアンティオキアの町だけでなく、その後の町でも「迫害」という同じことが起こり、そして「イコニオンでも同じことが起こった」のです。何度やっても同じことの繰り返ししか生じないと、私たちの中に「どうせ、こんなことをしても!」という思いが生じます。ですが、パウロとバルナバはそのようには捉えませんでした。それでも同じことを続けたのです。同じことを続けるには大きな力が必要です。その力を神は私たちに与えてくださいます。
イザヤ40:31に「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、」と書かれています。昨年のクリスマスライブで、「神が与えてくださる力は、パワーでもなければフォースでもなくストレングスである」と話しました。「これは精神力・忍耐力などに訳され『生きる力』を意味することばである」とも話しました。イザヤ40:31の「力」もストレングスということばが用いられています。それは「耐え続ける力」です。パウロとバルナバは、その力を神から与えられていたのです。そして、その神は私たち一人ひとりにもその力を与えてくださいます。住んでいる地でキリストの証し人として生きる。それは同じことの繰り返しで変化のないものかもしれません。それでもキリストの証し人として福音を伝え続ける働きを神は用いてくださいます。住んでいる地でキリスト者として生き続けることを通して、神の栄光は現されていきます。証し人として生き続けられるように祈っていきましょう。
2)満たしてくださる神
また神はご自身のすばらしさを現すために、私たちの必要を満たしてくださいます。イエス・キリストは、人々が食べ物を持っていないのを知られ、かわいそうに思われたことが2節に書かれています。五千人の給食の場合はどうだったでしょうか。34節に「彼らが羊飼いのいない…深くあわれみ、多くのことを教え始められた」と書かれています。ですが四千人の給食は、彼らが食物を持っていないのでかわいそうに思われたのです。なぜ彼らが食物をもっていないのかと言いますと、三日間もイエス・キリストと共にいて、みことばを中心とした交わりを持っていたからです。すなわち、この四千人の給食の人たちは、三日間もみことばに触れていたのです。五千人の給食は、イエス・キリストが人々を憐れまれたので、みことばを教え始められたのです。6:35の冒頭には、「そのうちに…時刻になっていたので」と書かれています。ですから、「イエス・キリストの話しはまだ終わっていなかった」と考えられます。その話しの途中で、弟子たちはイエス・キリストに「ここは人里離れた…なりました」(35節)と伝えたように受け取れます。
そのように見ますと、四千人の給食はイエス・キリストの話しが終わった後に、彼らの食物のことを心配されたのです。五千人の給食はイエス・キリストの話しの途中で、弟子たちが彼らのことを心配したのです。これが四千人の給食と五千人の給食の違いの一つです。すると、一つのことを考えさせられます。それは「なぜイエス・キリストは五千人の給食のときに人々の空腹のことを気にかけられなかったのか」ということです。その違いは、みことばを中心とする交わりが「あったのか」「なかったのか」ということです。イエス・キリストは、マタイ6:31~34で「 」と話されました。ここには「自分の将来を心配する必要はない。それは主を信じていない異邦人がすることだ」と話されています。何故このようなことを話されたのでしょうか。その前には、神の養いについて話されています。神が必要なものを与えて養ってくださっているのです。ところが、神を信じていない人はそのことが分からないのです。分かっていないから不安に駆られて求めてしまうのです。ここは決して「必要を求めることが悪い」と話されているのではありません。そのことを間違わないでいただきたいのです。
何度も開いている箇所ですが、創世記21章に書かれていますハガルの場合がそうです。神がハガルに声をかけられたから、近くに井戸ができたのではありません。井戸は最初からそこに備えられていたのです。ハガルは神のことばによって見方が変えられたから井戸を見つけることができただけなのです。ハガルは神のことばによって見方が変えられたことによって、生きる力が与えられたのです。そして、その生きる力を通して周りを見たとき井戸を見つけることができたのです。すなわち、ハガルに必要なものはすでに備えられていたのです。これが神の備えです。だから、イエス・キリストはマタイ6章の31節と34節で「心配しなくてよいのです」と繰り返し語られているのです。神は私たちがみことばによって養われ、「神が必要を満たしてくださる」と信じていても、弱い者であり不安を抱いてしまう者であることを御存知です。ですから、必要を求めても良いのです。
「必要を求める」というのは祈りの一つです。昔、ある方からこのような話を聞きました。その方は必要を覚え神に祈ると叶えられました。その人はM先生に「祈ったから叶えられた」と話されたらしいのです。すると、M先生は「祈らなくても叶えられていたよ」と答えられたらしいのです。でもその方は「いや、祈ったから叶えられたのです」と反論されたらしいのです。そのようなことがあったのを聞きながら、私は「そうですか」と答えつつも、頭の中で「私もM先生と同じなのだけど」と思って聞いていたのを思い出しました。
今朝の箇所に戻りますが、イエス・キリストは一人ひとりの必要を御存知であり、その必要を必ず満たしてくださるお方です。そのことを本当の意味で知るには、みことばによる養いが必要不可欠です。みことばは一人ひとりに生きる力を与えてくださいます。その「生きる力」とは、継続する力でもあります。始めることは、それほど難しいものではありませんが、続けることは難しいものです。その続ける力を与えてくれるものはみことばです。今までの自分の歩みを振り返るとき、本当に神は必要なものを必要なときに与えてくださったことに気づかされます。まさしく、みことばが約束している通りです。神は一人ひとりの必要を満たすことを通しても、ご自身のすばらしさを現されるお方です。
結)
神はご自身のすばらしさを現されるために、一人ひとりを豊かに用いられるお方であり、一人ひとりの必要を満たしてくださるお方です。その証しや満たしは小さなものかもしれません。でもそこには神の確かさを知ることができます。その神の確かさを深く知るには、みことばに養われるしかありません。いつでも何処でも、神はご自身のすばらしさを現されるお方です。私たちの日々の生活を通して、神のすばらしさがさらに現されるように、共に祈りつつ歩まされていきましょう。
マルコ7:31~37「交わりを求められる神」 25.02.23.
序)
今年度も残り1ヶ月ほどとなりました。今年度の教会標語は「励まし助け合う群れ」です。これは「みことばを土台として支え合う群れとして歩まされていきたい」と願って立てたものです。「みことばを土台として支え合う」とはどういうことでしょうか。以前、使徒2:42の箇所で共に見ました。2:42に「 」と書かれています。使徒たちの教えを守り、交わりを持っていたのです。この「交わり」とは、単なる世間話ではありません。「使徒たちの教えを守る」とは、使徒たちを通して語られていた教えを守っていたということです。そこには多くの霊的戦いがあったことと考えられます。その日々の歩みを分かち合うことを通して、互いに励まし助け合うことが42節に書かれている「交わり」であることを見ました。ですから、聖書に書かれている「交わり」とは、先程も話しましたが世間話ではなく、みことばによる励まし合い祈り合うことです。神はその交わりを私たちに持つように求めておられることを、今朝は共に教えられたいと願っています。
1)個人的な交わりを求められるイエス
第1にイエス・キリストは、個人的な交わりを求められる方です。イエス・キリストは、「ツロ」という町から再びガリラヤ地方に戻られました。すると人々は、耳が聞こえない人や口にきけない人を連れてきたのです。しかし33節を見ますと、「イエスは…連れ出し」と書かれています。「その人だけ」と単数で書かれていますから、一人の男性しか選ばれなかったということです。病や障害を抱えている全ての人を招かれたのではないのです。これは驚くべきことです。「何で!」と思えることです。ですが、よく読みますと37節に「 」と書かれています。ですから、イエス・キリストは全ての病や障害のある方を癒されたことが分かります。ところが、マルコは33節で「その人だけ」と書いているのです。私たちは「なぜマルコはこのような書き方をしているのか」というのを考える必要があります。全員を癒されたのですから、「その人たちを招いて癒された」と書いても不思議ではありません。でも、そのような書き方をしていないのです。何故でしょうか。その所を深く考える。それが「聖書を解釈する」ということです。
もう1つ注目したいのが「群衆の中から連れ出し」ということばです。これは群衆の中から前に出されたということではありません。群衆から離れて別の場所に行かれたことを意味しています。イエス・キリストは群衆が見ている中で、その人を癒されたのではないのです。しかも37節のことばから、一人ひとりをそのようにして癒されたものと考えられます。何故、わざわざそのようなことを一人ひとりにされたのでしょうか。群衆がいる中で癒されても良かったのではないでしょうか。頭の中でその風景を描きますと一つのことを知らされます。それはイエス・キリストが、一人ひとりと個人的な交わりを求めておられるということをです。神との個人的な交わりは何処で持てるでしょうか。それはディボーションです。聖書がわざわざこのようなことを語っているのは、神は私たち一人ひとりとの個人的な交わりを求めておられるからです。そして、その神との個人的な交わりはディボーションです。これからも神との個人的な交わりであるディボーションを大切にしていきたいものです。
2)共にいてくださる方
第2に、イエス・キリストは共にいてくださる方です。イエス・キリストは、この男性を連れ出された後、「天を見上げて、深く息をして」と書かれています。イエス・キリストは、まず天を見上げられたのです。ここに「えっ」と思わされることがあります。イエス・キリストは神ご自身です。それなのに、なぜ天を見上げられたのでしょうか。天を見上げることなく癒されても良いものです。そのことを考えさせられるのではないでしょうか。その考える中で一つのことに気づかされます。私たちは弱いもので、見えるものに心が奪われてしまいます。この男性はイエス・キリストに癒されることによって、イエス・キリストをほめたたえることでしょう。しかし、イエス・キリストはご自分に栄光を帰そうとはされなかったのです。父なる神に栄光が帰されることを願っておられたのです。そのために天を見上げられたのです。それは父なる神から力をいただいていることを示すためです。
また、深く息をされました。この「深く息をして」ということばは、神を信じる者の内なる戦いの時に使われることばです。それは信仰によって苦しむ状態を表しています。例えば、ローマ8:23の「心の中でうめいています」。また、26節の「ことばにならないうめきをもって」もそうです。このローマ8章は、今は罪の支配によって苦しんでいるけれども、「その後には神による勝利が約束されている」ということが書かれている箇所です。「今は信仰によって苦しんでいるけれども、あなただけが苦しんでいるのではなく、聖霊ご自身も共に苦しみとりなしの祈りをしてくださっている」と書かれています。ともすると、「聖霊は神ご自身だから苦しむことはない」と思われるかもしれませんが、聖霊は私たちの苦しみを共に苦しんでくださる方なのです。
今朝の箇所でイエス・キリストが深い息をされたのは、その人の苦しみをご自分の苦しみとされたということです。イエス・キリストは神ご自身ですから、簡単にこの男性を癒そうと思えば癒すことのできる方です。しかし、そのようなことをされず、この男性の苦しみをご自分の苦しみとされたのです。それと同じように、イエス・キリストはあなたの苦しみをご自分の苦しみとしてくださるお方なのです。ともすると、私たちは苦しみのとき自分一人が苦しんでいるように思いがちです。ですが、決して自分一人が苦しんでいるのではありません。三位一体なる神も共に苦しんでくださっているのです。何故なら、神はいつも私たち一人ひとりと共にいてくださるお方だからです。
3)私たちの応答
イエス・キリストは、この男性を癒されました。この男性は何年苦しんでいたのかは分かりません。生まれながらなのか、大人になってからなのかは聖書には書かれていません。何故なら、そのことは大きな事柄ではないからです。この箇所での大きな事柄は、神がどのような方であるかということと、人々がどのように応答したかです。人々はどのような応答をしたでしょうか。そのことを見てみたいと思います。
イエス・キリストは、この男性を癒されたあと何と言われたでしょうか。36節に「このことを…言ってはならない」と人々に命じられたのです。ところが、人々は「口止めされれば…ますます言い広めた」と36節の最後に書かれています。何故このようなことを人々はしたのでしょうか。それは目の前の出来事が衝撃的過ぎたからです。そのため、「誰にも言ってはならない」という聞くべきものが聞こえなかったのです。聖書はそのことについて、36節の後半に「彼らは口止め…言い広めた」と書かれています。彼らは何を言い広めたのでしょうか。それが37節に「 」と書かれています。人々が言い広めたのは、イエス・キリストがなされた癒しのわざを言い広めたのです。彼らは目の前の出来事が衝撃的過ぎたので、その出来事を言い広めたのです。それは「興味本位なものを言い広めた」ということでもあります。以前の聖書では「言いふらした」と訳されていました。「イエス・キリストがどのようなお方であられるか」という本質的なことは何も言い広めていないのです。
この「聞くべきものが聞こえない」というのは、私たちの中にも生じやすいものではないでしょうか。「誰にも言ってはならない」ということばは、イエス・キリストが直接話されたものですから、当時としては「みことば」と言っても過言ではありません。そのみことばを聞こえなくしているものは何でしょうか。先程「興味本位なものを言い広めた」と話しましたが、興味本位とは自分の思いや考えを優先してしまうことです。聞くべきものを聞こえなくしているものは、私たちの中にある「興味本位」という自分の思いや考えの最優先です。これは私たちの中にも起こり得ることです。そのことを知らされますと、7:20の「 」のことばを思い起こされます。自分の思いや考えも私たちの中にあるものです。それによって、聞くべきものを聞こえなくしてしまい、間違った方向に進ませてしまいます。
そのように考えますと、「私は聞くべきものをきちんと聞いているのか」ということを考えさせられます。ついつい自分の思いや考えが優先して、みことばを隅っこに追いやってしまう。また、みことばに根拠を置かず、自分の思いや考えに根拠を置いてしまう。この人々のしたことを通して、そのような自分自身を見出だされます。私たちの苦しみをご自分の苦しみとしてくださっている神に対して、自分自身を優先してしまう罪深い者であることに気づかされます。この36節の「しかし、彼らは」ということばは、私たちの心に「グサッ」と刺さることばではないでしょうか。「しかし、彼らは」という応答をしないように祈っていきたいものです。
結)
神は私たち一人ひとりと個人的な交わりを求めておられます。神との個人的な交わりの最も良いものは、最初の方でも話しましたようにディボーションです。みことばに聞き、みことばから教えられ神に祈ることです。そこで大切なのは、自分の思いや考えを優先させないことです。そうでないと、聞くべきことが聞けなくなってしまいます。最後に、ローマ10:17を読んで祈ります。
マルコ7:24~30「神のすばらしさを知る」 25.02.16.
序)
週報に書かれていますように、先週の火曜日に私たちの教会が属しています団体の年次事務総会が行われました。これも週報に記載されていますが、新実行委員と新責任役員と新監事が選出されました。この方々のためにお祈り頂きたいと願います。今朝は「神のすばらしさを知る」というタイトルです。私たちが神のすばらしさを知るにはどうすれば良いのかを共に教えられたいと願っています。
1)願い続ける
その神のすばらしさを知る第1は、神に願い続けることです。イエス・キリストは「ツロ」という町に行かれました。この「ツロ」という町は、地図⑫を開きますと、北の方の地中海沿いに「ツロ」と書かれています。ツロの近くに太文字で「フェニキア」と書かれています。この地方は使徒の働きのときにも見ましたが、迫害によって使徒たち以外は散らされたことによって、フェニキア地方を通ってシリアのアンティオキアに向かう途中で通った所です。ですから、「ツロ」という町はイスラエルではありません。ユダヤ人から見れば外国の町です。「何故イエス・キリストは外国の町に行かれたのか」と思われる方がおられるかもしれません。そのことについての説明が24節の後半に書かれています。要は、休養のためと考えられます。ところが、ツロの町に行ってもイエス・キリストは休むことができませんでした。おそらく、イエス・キリストの名前はイスラエルの周辺にまで知れ渡っていたのでしょう。そこに一人の女性がイエス・キリストの所に来ました。この女性については、26節に「彼女はギリシャ人で…生まれであった」と紹介されています。すなわち、彼女はユダヤ人から見れば異邦人なのです。しかし、彼女はイエス・キリストのことを知っており、そのイエス・キリストがツロの町に来られているのを耳にしたので、イエス・キリストの所に来たものと考えられます。彼女がイエス・キリストの所に来た理由は、25節の最後に「彼女の幼い娘は、汚れた霊につかれていた」からです。その汚れた霊をイエス・キリストによって追い出してもらうことが目的だったのです。
彼女はそのことを願ったことが26節に書かれています。これは願い続けたのを意味することばです。「願い続けた」ということは、自分の願いが受け入れられていないことを意味します。私たちは「イエス・キリストはご自分の所に願いに来る人を全て受け入れてくださる方」と思ってはいないでしょうか。しかし、今朝の箇所はそうではありません。しかも、27節に「するとイエスは言われた」と書かれています。この状況を頭の中で思い浮かべますと、2つのイエス・キリストの態度が思い浮かべられます。1つは断り続けられたイエス・キリストの姿です。もう1つは無視し続けられたイエス・キリストの姿です。どちらなのかは、聖書から読み取ることはできません。ですが確かなことは、「彼女の願いを受け入れられていなかった」ということです。しかし、これは「本当にイエス・キリストは彼女の願いを受け入れられていなかった」ということではありません。イエス・キリストは「彼女の限界を御存知であられた」ということではないでしょうか。
「イエス・キリストに願う」というのは祈りです。私たちも神に祈り続けます。ところが、その祈りは神に届いているのか分からないときがあります。ともすると、神に無視されているように思えるときもあります。それでも祈り続けることの大切さを教えられます。ルカ18:1~8に、イエス・キリストが祈りについて話されたことが書かれています。6節で話されています「不正な裁判官」というのは、「賄賂を取る」というような不正な意味ではないと考えられます。当時のこの世の裁判官を意味していると考えられます。ここでイエス・キリストは、「この世の裁判官であっても願い続けるなら聞いてもらえる」ということを話された後、7節で「まして神は」と語られています。これは「この世の裁判官がそうであれば、神は尚更のこと」という意味です。この譬え話は何のために話されたのかが1節に書かれています。それは「いつでも祈るべきで、失望してはいけないことを教えるために」です。すなわち、「神は祈り続ける者のために必ず答えてくださるから、失望せずに祈り続けるように」と教えるために、この譬え話をイエス・キリストはされたのです。イエス・キリストは私たちの祈りの限界も御存知です。ですから、なかなか祈りが叶わなくても失望することなく祈り続けることを通して、神は必ずすばらしいことをしてくださいます。その神の約束を信じ、失望することなく祈り続ける者とさせられたいものです。
2)神の恵みに期待する
神のすばらしさを知る第2は、神の恵みに期待することです。この女性がイエス・キリストの所に来た理由は、自分の娘が汚れた霊につかれていたからです。もう彼女の希望はイエス・キリストしかありませんでした。それなのに、イエス・キリストは断られたのです。何故でしょうか。彼女の限界を御存知であられたのと同時に、彼女が異邦人だったからです。27節でイエス・キリストは「 」と答えられました。「これは何を意味するのか」と言いますと、何事にも順番があるということです。ここに書かれています「小犬」とは野良犬のことではなく、家の中で飼われている犬のことです。我が家も犬を飼っていますが、前に居た犬は私が食べているものを与えてもいました。それは、我が家で飼う前から与えられていたからです。でも、今飼っている犬には与えないようにしています。それは、ここでイエス・キリストが話された譬え話と同じです。「ここでイエス・キリストは何を話されているのか」と言いますと、順序のことを話されているのです。それは「福音が伝えられるのにも順序がある」ということです。その順序とは、まずユダヤ人に伝えられることが優先され、異邦人はその次である」ということです。「それなのに、ユダヤ人よりも異邦人に先に伝えるのは良くないことだ」と話されているのです。
そのイエス・キリストの答えに対して、彼女はどのように答えたでしょうか。願い続け無視されているかのような態度を取られ、やっと話してくれたことばが自分を犬のように例えられたのです。腹が立っても可笑しくないことです。でも彼女は、28節で「 」と答えたのです。先程話しました我が家も、人が食べる物を犬には与えないようにしていますが、床に落ちたものは食べても良いようにしています。言い方を変えれば「おこぼれ」です。彼女は「おこぼれでも良いからいただきたい」と答えたのです。並行箇所であるマタイ15:22には「私をあわれんでください」と願っていることが書かれています。汚れた霊につかれたのは自分の娘ですから、「娘を憐れんでください」と言うのが普通です。でも彼女は「私を憐れんでください」と言ったのです。彼女自身も限界だったのです。そして、「その自分を生かすものはイエス・キリストしかない」と思っていたのです。ですから、どのようなイエス・キリストの態度であっても、彼女はイエス・キリストの恵みをいただきたかったのです。
彼女の答えに対して、イエス・キリストはマタイ15:28「あなたの信仰は立派です」と言われました。このことばは、長血を患った女性に対しても言われたことを覚えておられることと思います。そのとき、イエス・キリストは「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われました。この女性も「イエス・キリストしかない」という厚い思いです。そして、今朝の母親もそうです。娘のことで限界に達し、生きる力も出てこない状態でした。「自分を生かすものはイエス・キリストしかない」と確信していたのです。その確信が「あなたの信仰」なのです。「人を生かすものは神の恵みしかない」という信仰に対して、イエス・キリストは「立派だ」と話されたのです。神の恵みに期待することによって、人は神のすばらしさを知ることができるのです。
3)目的・目標を持つ
神のすばらしさを知る第3は、目的・目標を持つことです。この女性はイエス・キリストに願い続けていましたし、神の恵みに大きな期待を寄せていました。何が彼女をそこまでさせたのでしょうか。それは自分の娘が汚れた霊から救われるためです。彼女には、「娘が救われる」という目的・目標があったから、そこまですることができたのです。この準備をしているとき、先月のJBC愛知祈祷会にて読まれたローマ5:3~5を思い出しました。そのとき賢作先生は、「苦難のあとすぐに希望が与えられるのではなく、その間に忍耐と練られた品性がある」と話されました。今朝の女性が経験したことは、まさしくこれです。彼女は「娘が汚れた霊につかれる」という苦難を経験しました。そしてイエス・キリストの所に行ったら、すぐに癒しという希望が与えられたのではありません。「願い続ける」という忍耐を経験します。その経験を通して、彼女はイエス・キリストが発せられたことばを注意深く聞きました。普通なら聞き流してしまう「小犬」ということばがそれです。普通なら怒ってしまいそうな言われ方です。ですが、彼女は「小犬」ということばから、イエス・キリストに答えました。これは「聞き分ける力」ということができますし、ローマ書で言えば「練られた品性」ということもできるでしょう。そのことを通して、彼女は娘の癒しという希望が与えられたのです。今朝の箇所を準備しつつ、賢作先生が話されたことを思い出し「まさしくそうだな」ということを思わされました。
彼女は何故そのようなことができたのでしょうか。それは「娘が癒される」という目的・目標をしっかりと持っていたからです。パウロはⅠコリント9:26で「 」と語っています。目的・目標を見据えていることの大切さを語っています。そうでないと空回りしてしまうだけで疲れてしまいます。4つの種の譬え話もそうです。道端に落ちた種は鳥に食べられてしまいましたが、後の3つの種は芽を出したのです。それは「みことばを受け入れた」ということです。しかし、「何のためにみことばを受け入れたのか」ということがはっきりとしていないために、2つの種は実を結ぶことができなかったのです。目的・目標を見出せなかったがために、周囲のものに振り回されてしまったのです。聖書は「目的・目標を持つ」というのは霊的な信仰においても大切であることを教えています。そして、それが生きる力の原動力にもなるのです。信仰が与えられたら自然に生きる力を持つことができるのではありません。「何のために」という目的・目標を持つことが大切です。
結)
今朝の異邦人女性は、神のすばらしさを自分の経験を通して知ることができました。そこには、イエス・キリストを信じ願い続け、神の恵みに期待し、「何のために」という目的・目標を持っていたからです。「神のすばらしさ」という恵みは神秘的に起きるものではありません。私たちの生き方に直結しているものであり現実的なものです。何度も話していますが、旧約聖書を読んでいきますと、神の恵みがあり、それに対して人の応答があり、その応答に対して神の恵みがあることが描かれています。「間違った応答をしたときは懲らしめがあるじゃないか」と思われる方もおられるかもしれませんが、神の懲らしめも恵みの一つです。その神の懲らしめにどのように応答するかによって、また神のなさることは異なってきます。神のすばらしさを知るには、私たちが正しく神の恵みに応答することを教えられます。神の恵みに正しく応答する者として歩み続けられるように共に祈っていきましょう。
マルコ7:14~23「汚すものと聖めるもの」 25.02.09.
序)
今日のメッセージタイトルは「汚すものと聖めるもの」です。「汚(けが)す」という漢字は、「汚(きたな)いとか「汚(よご)れる」とも読みます。親が子どもに「手が汚(きたな)いから洗いなさい」と言うことばを耳にすることがあります。ある方は「これは間違っている」と話されていました。「手が汚(きたな)い」のではなく、「手が汚(よご)れているだけである」と言われるのです。その方は「そのような注意をすると、子どもは『自分の手は汚(きたな)い』と思うようになる」と話されていました。それを聞きながら「一つのことばですが難しいな」と思わされました。漢字にしますと同じ字を用います。でも、意味的には全く違うものとなります。外から来るものは汚(よご)したり汚(きたな)くしたりはしますが、決して汚(けが)すものではありません。今朝の箇所は、その汚(けが)れについてイエス・キリストが話されている箇所です。今朝は、人を汚(けが)すものと聖めるものについて共に教えられたいと願っています。
1)背景
まず、何故このような話になったのかという背景を見てみたいと思います。その背景とは先週の箇所です。1節に「さて」と書かれています。この「さて」とは、話しが別のものに転換するときに用いられることばです。ところが、並行箇所であるマタイ15:1には「そのころ」と書かれています。この「そのころ」とは何を指しているのかと言いますと、14:34以降のゲネサレの地でのことです。マルコで言えば6:53以降のことです。どちらも人々がイエス・キリストの所に集まって来たことが記されています。その群衆にイエス・キリストは再び話されたのです。それが今朝の箇所の14節の「イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた」ということばです。
先週触れましたが、7:3に「 」と書かれています。ユダヤ人は食事の前に手を洗う習慣がありました。私たち日本人の多くは食事の前に手を洗います。でも、その意味は全く違います。私たち日本人が食事の前に手を洗うのは、手が汚(よご)れているかもしれないので、そのまま手を洗わずに食事をすると、食物に手についている汚(よご)れが食物に移り、それが身体の中に入りますと病気になってしまうからです。その予防として食事の前に手を洗います。しかし、ユダヤ人はそうではありませんでした。日本人と同じように食事の前に手を洗いますが、それは自分が汚(けが)れた者とならないためです。決して、病気の予防のために手を洗うのではないのです。
当時のユダヤ教の人たちは、律法を守り行うことに熱心でした。それは「神から与えられた律法を守り行っていれば神に義と認められる」と信じていたからです。神は汚(けが)れを嫌われる方です。ですから、「自分が汚(けが)れた者にならない限り神に義と認められる」と信じていたのです。先週も話しましたが、律法を守り行うために当時のユダヤ教指導者らは、その律法の周りに様々な決まりごとを作っていたのです。むしろ、そちらの方に重きを置くようになったのです。今朝の箇所は、その続きです。すなわち、「手を洗わずに食事をすると汚(けが)れてしまう」ということに対して話されたのが今朝の箇所です。そのような背景があることを頭の中に入れつつ見ていきたいと思います。
2)汚(けが)すもの
当時のユダヤ教指導者らは、「外から入るものが人を汚(けが)す」と考えていました。ところが、イエス・キリストは「外から入るものは人を汚(けが)すことはない」と話されたのです。では、人を汚(けが)すものは何かと言いますと、「それは人から出てくるものである」というのです。それは人の中から出てくるものが人を汚(けが)す」と話されたのです。すると弟子たちは、そのことについてイエス・キリストに尋ねました。イエス・キリストは、18節の後半で「外から入って…ことはできません」と答えられましたの。これは創世記1:31に基づいているものです。神はご自分が造った全てのものを見られて「非常に良かった」と評価されたのです。これは「悪いものは何一つない」ということです。神は「良いもの」として全てのものを造られました。ですから、外から入るもので人を汚(けが)すものは何一つないのです。
では、何が人を汚(けが)すのでしょうか。イエス・キリストは、20~23節で「 」と話されました。ここには、私たちの中に生じるものがリストアップされています。この中で私たちは一番悪いのは「殺人」と思うのではないでしょうか。何故なら、人の命を奪ってしまうものだからです。その次に「盗み」かもしれません。何故なら、他人に損害を与えてしまうからです。そして、頭の中で考えるものは人の命を奪うものでもなければ、他人に損害を与えるものでもありませんから、「まだましだ」と思ったりもします。しかし、イエス・キリストは「同じもの」として話されています。悪い考えや高慢も殺人や盗みと同じものとして話されたのです。確かに悪い考えや高慢は心の中でのものですから、他人に損害を与えてはいません。でも、それは結果です。でも神は、結果よりも原因の方を重視されます。盗みというのは、心の中に何も生じないで行うものではありません。「これが欲しい」という思いが生じて、それが抑えられなくなり行動を起こしてしまうのが盗みです。殺人もそうです。その人の存在が邪魔になり「いなければ良い」という思いが強くなって、その人の命を奪ってしまうのが殺人です。貪欲も妬みも心の中に生じるものが強くなって目に見える形として表されてしまうのです。
「人を汚(けが)すものは、外から入るものではなく人の中にある罪である」とイエス・キリストは話されているのです。その罪はどのようにして人の中に入ったのでしょうか。御存知のように、それは人が神との約束を破ったからです。確かに、人が神に対して罪を犯してしまったのはサタンの誘惑によってです。ですが、創世記3章を見ますと、人は神との約束を覚えていたことが2~3節に記されています。しかし、サタンの誘惑によって「食べてみたい」という思いが強まり、その思いが神との約束を上回って食べてしまい、神との約束を破ってしまったのです。「食べてみたい」というのは心の中のことです。でも、その心の中のものが強まって抑えられなくなったがために、人は神に対して罪を犯し汚(けが)れた者となったのです。余談ですが、「クリスチャンの成長を阻む12の誤解」という書物を先週紹介しました。そして、第1章は「自分の必要を満たすことは自己中心である」という誤解は、この創世記3章から出ているものです。「人は自分の心の満たしを求めたから神に対して罪を犯してしまったのだから、自分の必要を満たすことは自己中心であり罪である」と捉えるクリスチャンがおられるのです。今朝はそのことについては詳しく見ませんが、この創世記3章はそのようなことを語っているのではありません。
話しを戻しまして、人を汚すものはその人の中にある罪です。クリスチャンの中には「神を信じないことが罪であり汚(けが)れである」と思っておられる方がおられます。それは間違いではありませんが正しくもありません。今朝の箇所のユダヤ教指導者たちは神であられる主を信じていました。しかし、イエス・キリストはそのような彼らに対して「汚れている」と言われたのです。何故でしょうか。それは彼らの信仰が口先だけのものだったからです。黙示録3:14~16に「 」と書かれています。これはラオディキアの教会に対して言われた神のことばです。すなわち、イエス・キリストを信じている人たちの群れに対して言われたことばです。その人たちに対して、神は「わたしは口からあなたを吐き出す」と言われたのです。これは恐ろしいことです。イエス・キリストを信じている群れに対して「あなたを吐き出す」と言われているのですから。何故でしょうか。それは15節に書かれていますように、「あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもない」からです。それはどういうことかと言いますと、口先だけの信仰だったからです。ともすると「神の赦し」「神の救い」を私たちは強調してしまいやすいですが、同時に神の審きをも覚えるのは大切なことです。黙示録2:23に「あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる」と書かれています。また、22:12にも「それぞれの行いに応じて報いるために」と書かれています。このヨハネの黙示録は、何処に宛てて書かれた手紙でしょうか。1:4に「アジアにある七つの教会へ」と書かれています。その七つの教会の名前が11節に書かれています。今朝の箇所に戻りますが文脈から読み取りますと、この箇所は7:9~13を受けてのものであることが分かります。すなわち、ユダヤ教指導者らの口先だけの信仰に対してイエス・キリストは話されているのです。口先だけの信仰も人を汚(けが)すものであることを知らされます。
3)聖めるもの
では、人を聖めるものは何でしょうか。口先だけの信仰が人を汚すのであれば、熱心な信仰が人を聖めるのでしょうか。簡単に言えばそうです。熱心な信仰が人を聖めるのです。ここで大切なのは、「熱心な信仰とは何か」です。私たちは「熱心な信仰」と聞きますと、日々聖書を読んで祈り、教会の行事にも積極的に参加し奉仕をすることと思いやすくなります。ですが、聖書が語る「熱心な信仰」とはそのようなことではありません。もしそうであるなら、イエス・キリストはルカ10:38以降に書かれているマルタの行為を褒められたことでしょう。しかし、このときイエス・キリストが褒めたのはマルタではなく、妹のマリアの方を褒められたのです。間違えないようにしていただきたいのですが、ここでイエス・キリストはマルタの行為を責められたのではありません。マルタの行いは良いものですが、最優先されるものでもなかったのです。
この箇所で注目したいのは39節です。この状況を頭の中で想像していただきたいのです。どういう状況でしょうか。「マリアは主のことばに聞き入っていた」ということは、「イエス・キリストが話されていた」ということです。しかも、マリアは「主の足もとに座って」なのです。これはどういう状況でしょうか。マリアはイエス・キリストを礼拝していたのです。すなわち、ここでなされていたのは礼拝なのです。イエス・キリストを礼拝しているときに、マルタは「もてなす」という奉仕をしていたのです。「ここでイエス・キリストは何を伝えようとされているのか」と言いますと、「奉仕は礼拝よりも優先されるものではない」ということです。マルタはイエス・キリストが話されていたこと、すなわち礼拝がなされていたことを知っていたのです。それにも拘わらず、「もてなす」という奉仕に気が向けられていたのです。これは何を意味しているのかと言いますと、「神のことばに耳を傾けることよりも奉仕することの方が大切である」ということです。要は優先順位です。先程も触れましたように、「マルタの奉仕が悪い」とイエス・キリストは話されているのではありません。でもそれは、イエス・キリストの話しが終わってからでもできることです。ともすると、私たちはマルタの行為が熱心な信仰のように思ってしまいやすくなります。しかし、このときのマルタの行為は熱心な信仰とは言えないものです。何故なら、神のことばに耳を傾けることよりも奉仕することの方に重きを置いていたからです。
では、聖書の語る熱心な信仰とは何でしょうか。それは神のことばに耳を傾けることであり、その神の約束を信じ期待することです。本日の聖書交読の箇所である詩篇81:10に「 」と書かれています。ここには、神に大きな期待をすることが求められています。何故でしょうか。それは神がエジプトの地から連れ上らせてくださったからです。5節の「ヨセフのうちに」とは、イスラエルの民のことを指しています。神はイスラエルの民をエジプトから脱出させ、荒野での生活を守り導かれました。その途中では、様々な苦難をイスラエルの民は経験しました。「神の守りと導きの中にあるなら苦難を経験しない」というのではありません。神の守りと導きの中にあっても苦難を経験するのです。しかし、その一つひとつを神は乗り越えさせてくださいました。そこに根拠を置いて神に期待し、「口を大きく開けよ」と言われているのです。その後で、「わたしがそれを満たそう」と約束してくださっています。その神の約束を信じ期待することが熱心な信仰です。
ですが、熱心な信仰とはそれだけではありません。目の前の事柄に対して忠実であることも大切です。それは現実に目を向けるということでもあります。詩篇119:105に「 」と書かれています。神のみことばは「私の道の光」と書かれています。この「私の道の光」とは遠くに輝いている光のことです。それは「神の約束」と言っても良いでしょう。先程で言えば「わたしがそれを満たそう」と言われた神の約束です。その神の約束に目を留め歩み続けることは熱心な信仰の一つです。それと同時に、「私の足のともしび」とも書かれています。これは目の前の事柄に光を当ててくださることを表しています。目の前の事柄とは現実のことです。目の前の現実に目を向けさせて、その現実に対してきちんと取り組むことです。犬の散歩をしているとき、犬の糞を処理されずにそのまま放置されているのを見かけます。私の足元に犬の糞があったら、踏まないように横に行ったり跨いだりして避けます。これは何を意味するかと言いますと、目の前の事柄にきちんと対応しているということです。現実に対してきちんと対応することも熱心な信仰の一つなのです。
ある方は「神様が最善を成してくださるから」と言って、目の前の事柄を放置される方がおられます。ある方は「すばらしい信仰だ」と思われるかもしれませんが、私はそのようには捉えられないのです。何故なら、「聖書はそのようには語っていない」というのが私の聖書理解だからです。ルカの福音書14:28~32で、イエス・キリストは「 」と話されました。この箇所の中心点は27節の「 」ということばです。目の前の事柄をきちんと見据えて取り組むことが「自分の十字架を負う」ということです。その例話として28~32節の譬えが話されているのです。ですから、神の約束に目を留めつつ、目の前の事柄もきちんと取り組むことが熱心な信仰です。その熱心な信仰が私たちを聖めるのです。
結)
人を聖めるものは行いではなく信仰です。その信仰も神の恵みによって与えられるものです。すでに私たちに与えられています信仰が、さらに熱心なものとなるように祈っていきましょう。
マルコ7:1~13「祝福された信仰」 25.02.02.
序)
今日は巷では節分で、恵方巻を食べることが言われています。私も「恵方巻」ということばは、テレビで紹介されていたことを覚えています。そのときは、大阪の食べ物として紹介されていたように記憶し、その後全国的に広がったような記憶があります。その恵方巻について調べましたところ、恵方巻は昔から西日本地方で行われていまして、戦後に寿司商組合が海苔問屋組合と組んで、「幸運巻き寿司」として売り出し、大阪を中心として広まったたようです。1989年に広島のセブンイレブンが「恵方巻」という名前で売り出し、2000年以降に全国に広まったようです。毎年方角が違いますが、その方角に向かって食べると「たたりの神が来ない」ということらしいです。「恵方」というのは「恵みの方角」という意味かもしれません。ですが、私たちは「神の恵みはそのようなもので左右されるものではない」と信じています。神の恵み、それは神の祝福でもあります。今朝は、その祝福された信仰について共に教えられたいと願っています。
1)みことばを限定しない
祝福された信仰の第1は、みことばを限定しないことです。3~4節に「 」と書かれています。これはマルコの説明文です。「何故マルコが、わざわざこのような説明を書いているのか」と言いますと、この手紙の読者は「なぜ手を洗わずに食事をすることが悪いのか」を知らなかったからです。例えば、私たち日本人は食事をする前に手を洗うことが習慣化されています。ですから、子どもが手を洗わずに食べようとすると親から注意されます。ところが、聞いた話ですが欧米人は食事の前に手を洗う習慣がないようです。食事の前に手を洗うのは一つの文化でもあります。数年前からはユニセフが食事の前に手を洗うことを勧めているようです。でも、この当時は「マルコの福音書」と言われています手紙が送られた所は、そのような風習がなかったのでしょう。そのため、マルコは説明しているものと考えられます。
このことから1つのことを教えられます。それは、みことばは時間や場所という隔たりを超えて働くものであるということです。3~4節の説明から、マルコの福音書はユダヤ文化の人々に対して書かれたものではないことが分かります。何故なら、もしユダヤ文化に精通している人たちなら、このような説明を書く必要はないからです。それなのに、わざわざ説明を書いているということは、この手紙の受取人はユダヤ文化に慣れ親しんでいない人たちであるということです。では、「誰なのか」ということになりますが、おそらく異邦人キリスト者に宛てて書かれたものと考えられます。でも、このマルコの福音書の内容は、イスラエルの国で起きたイエス・キリストの出来事です。すなわち、ユダヤ人の地と異邦人の地という隔たりがあるのです。でもマルコは、「真理というのは場所的な隔たりを超えるものである」ということを示しているのです。ユダヤの地で行われたことが異邦人の地でも行われることを示しているのです。
また、マルコの福音書はイエス・キリストの公生涯のことが書かれています。しかし、実際にマルコの福音書が書かれた時代は、イエス・キリストが天に挙がられてから数十年経ってからのことです。そこには時間的隔たりがあります。でもマルコは、「真理は時間的な隔たりを超えたものである」ということも示しているのです。すなわち、聖書は場所的な隔たりや時間的な隔たりを超えて働く書物であることを示しているのです。
このことから、聖書は現代の私たちにも生きる書物であることを示しています。場所の距離的違いがありますし、時間の違いもあります。でも、それらを超えて働くのが神のことばです。ある方は「聖書は昔に書かれた書物だから現代には通用しない」と言われます。或いは「聖書の出来事はイスラエルでの出来事であり、私たちの所で行われたものではないから通用しない」と言われたりします。しかし、神のことばは時間的な隔たりや場所的な隔たりを超えて働くことのできるものです。もし私たちが、神のことばの働きを限定してしまいますと、神の働きを小さくさせてしまいます。神のことばは時間や場所の隔たりを超えて働くことのできる力あるものです。神のことばを限定して捉えるのではなく、時間や場所を超えて働くことのできる力あるものとして受け取ることの大切さを教えられます。
2)口先の信仰を持たない
祝福された信仰の第2は、口先の信仰を持たないことです。イエス・キリストは、6~7節で旧約聖書のみことばを引用されました。これは欄外に書かれていますようにイザヤ29:13のみことばです。「口先の信仰とはどのようなものか」は想像がつくと思います。口で言っていることと、実際の生活が違っていることです。表面上は信じているように見せかけながら、実際の生活は聖書の教えから遠く離れていることです。「神を愛している」「神を第1にしている」と言いながら、「神を礼拝する」という畏れ(畏敬)がないなら、それは形式的な礼拝になってしまいます。
でも、それだけではありません。イエス・キリストは8節で「 」と話されています。「これはどういうことか」と言いますと、当時は律法を守り行うために、その律法の周りに細かい規定が設けられていました。以前にも話しましたが、「安息日には約1㎞以上歩いてはならない」とか「安息日に生まれた卵を食べてはならない」という規定です。それらの細かい規定を守っていれば、「律法に違反しないから大丈夫」と思って、それらを守り行うことに目が向けられるようになったのです。でも、それらは目に見えるものです。しかし、神が求めておられる礼拝は「御霊と真理による礼拝」です。以前までの訳ですと「霊とまことによる礼拝」です。これは目に見えるものではありません。ところが、当時は目に見える人が作った細かい規定に関心が寄せられ、神が何よりも求めておられる「神を畏れ敬う」というものがないがしろにされていたのです。9節でイエス・キリストが話されたのはこのことです。
先程見ました3~4節もそうです。律法の中に「汚れたものに触るとその人は汚れる」と書かれています。ひょっとしたら本人が気づかない内に汚れたものに触ることがあるかもしれません。そのため、「外から帰って来たとき手を洗わずに食事をすると、その人は汚れた者となる」と考えられ、食事をする前には手を洗う決まりが設けられたのです。ところが、次第にそのような細かい規定を守ることが重要視されるようになり、当時のユダヤ人はそのような細かい規定を守り行うことに一生懸命になったのです。そのことについてイエス・キリストは、次回の箇所になりますが15節で「外から入って…何もありません」と話されました。これは何を意味しているかと言いますと、「本質を見誤るな」ということです。今、新年度の学び会の準備をしています。予定としては2年間の学びを考えています。それは「クリスチャンの成長を阻む12の誤解」という書物から学ぶというものです。第1章は「自分の必要を満たすことは自己中心である」というものです。「そのように思い込まれているクリスチャンが多いが、果たして本当にそうなのか」ということです。ある方は「自分のことよりも他者のことを考えて生きよ」と言われます。「そちらの方が聖書的ではないか」と思わされたりもします。「でも本当にそうなのか」ということが第1章には書かれています。
当時のユダヤ人の多くは、本質を見誤って人が作り出した教えに目が向けられていました。でもそれは神が喜ばれるものではありません。むしろ、神の教えをないがしろにするものであり、口先だけの信仰であるとイエス・キリストは指摘されているのです。そのことは私たちも考えさせられます。「自分は何を根拠にして生きているのか」を考えさせられます。口先の信仰でなく、みことばに基づいた生き方ができるように祈っていきたいものです。
3)日々の生活で生かす
祝福された信仰の第3は、神への信仰を日々の生活の中で生かすことです。イエス・キリストは、10~13節で「 」と話されました。当時のユダヤ教指導者の中には、両親の生活を支援するためのお金を献げ物にしていた人がいたようです。それはどういうことかと言いますと、両親に「あなたがたに渡すお金は神様のために用いられるようになりました」ということです。この箇所を読まれてどのように思われるでしょうか。「ひどい」と思われるでしょうか。今役員会で学んでいます「信徒といっしょの牧会」という本の中に、「役員会が新しい年度の教職費について相談するとき、特に意見を出す者もなく、やがて出てくる話しが『教会には貧しい人がいるから』ということで、教職費が低く抑えられ、あと1年間は貧しい人の問題が忘れられるとしたら、そういう扱いの恐ろしさに気がつかなくてはいけないのです。」と書かれています。
今朝の箇所と似たことが教会でも行われていることを指摘されています。「教職費」のことと「貧しい人への配慮」は別問題です。ところが、いつの間にか「貧しい人への配慮」にすり替えられてしまう危険性があるというのです。この箇所もそうです。ここでイエス・キリストは、「神への献げ物よりも両親を敬う方が大切である」と話されているのではありません。「『神への献げ物』ことと『両親を敬う』ことは別問題である」と話されているのです。そのことをきちんと見据えて行うことを勧めておられるのです。「敬う」というのは心の中の事柄です。その心の中の事柄を見える形で表すには、両親に直接支援するお金を渡すことです。「神への献げ物」もそうです。「感謝」というのも心の中の事柄です。その心の中のものを見える形として表すのが献げ物です。ヨハネはⅠヨハネ5:20~21で「 」と語っています。ここでも「愛」は見えるものではありませんが、その見えない愛を見える形で表すには見える兄弟を愛することです。
「ここでイエス・キリストは何を言おうとされているのか」と言いますと、「信仰という目に見えないものを、日々の生活を通して見える形として表しなさい」と話されているのです。聖書の教えを日々の生活の中で実践することが私たちには求められているのです。聖書の教えを日々の生活の中で実践しようとするとき、私たちに何が生じるでしょうか。それは「完璧にはできない」というものです。自分の弱さを知らされます。ともすると、その自分の弱さを責めてしまうこともあります。しかし、そこで大切なのは自分の弱さを責めることよりも、自分の弱さを知って神の前にへりくだることです。箴言3:34に「神はへりくだった者には恵みを与える」と書かれています。また、ヤコブ4:10には「主の御前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます」とも書かれています。「主の御前にへりくだる」とはどういうことでしょうか。「神様、申し訳ありません。私はできない者です」と祈ることでしょうか。そうではありません。「私はできない者です」で祈り終わってはいけないのです。その後で、「どうか、私をできる者へと成長させてください、助けてください」という祈りを加えることが、「主の御前にへりくだる」ということです。日々の生活の中で信仰を生かすには、この主の御前にへりくだることが大切です。
結)
神はいつも私たちに祝福を与えてくださいます。どのようにして与えてくださるでしょうか。それはみことばを通して与えてくださいます。その神のみことばは場所や時間を超えて私たちに働いてくださいます。ですから、みことばを限定しないことは大切です。神はみことばを通して私たちを祝福してくださいます。また、口先だけでなく信じていることを日々の生活の中で生かすことを通しても神は祝福してくださいます。Ⅰコリント1:18に「 」と書かれています。みことばは神の力です。そのみことばを信じ、日々の生活で生かすことができるように、共に祈り続けていきましょう。
マルコ6:45~56「信仰の確信」 25.01.26.
序)
先週は「五千人の給食」というタイトルが付けられている箇所から、弟子たちの誤解について学びました。弟子たちは、イエス・キリストが話されました「あなたがたが」ということばを誤解して捉えたがために、間違った方向に進んでしまいました。この問題は、当時の弟子たちは解決していません。解決しないがために、どうなったのかが描かれているのが今朝の箇所です。今朝はこの箇所を通して、イエス・キリストはどのような方であるかを見つつ、「信仰の確信」ということについて共に教えられたいと願っています。
1)いつも見守ってくださる方
第1に、イエス・キリストはいつも私たちを見守ってくださる方です。イエス・キリストは五千人の給食の後、「弟子たちを無理やり舟に乗りこませ」と書かれています。以前の聖書には「強いて」と訳されていました。その光景を頭に浮かべていただきたいのです。イエス・キリストは弟子たちに「向こう岸に行きなさい」と言われ、弟子たちは自ら船に乗り込んだのではないのです。「無理やり」とか「強いて」ということばから、躊躇っていた弟子たちもいたように思えるのではないでしょうか。その躊躇っている弟子たちにも強制的に舟に乗り込ませたのです。「えっ!」と思わされる光景です。そして、「イエス様って、そんなことをされるの?」とまで思わされたりします。「躊躇う」というのは、好んでいないことを意味しています。好んでいないものを強制的に行わせるという神の導き。そのようなものは私たちの歩みの中にも経験されたことがあるのではないでしょうか。現状を考えると「したくない」とか「できない」と思えるのですが、強制的に行わせられるという神の導きを経験されたことがあるのではないでしょうか。
無理やりに舟に乗り込まされた弟子たちは、舟を漕いでベツサイダに向かいました。すると、湖の真ん中辺りで向かい風のため舟が進まない状況に陥りました。弟子たちの中には「イエス様が無理やり乗り込ませたからこんな目に遭った」と思った人もいたかもしれません。何故なら、舟に乗り込まなければ、こんな目に遭うことはなかったからです。このようなことは、私たちの歩みの中でも経験したことがあるのではないでしょうか。自分は進まないけれども、祈りの中で示され実行したけれども、実を結ばないだけでなく「最悪の状態になってしまった」というようなことをです。そして、「こんなことをしなければ良かった」と思い、「何で神様はこのように導かれたのか」と思ってしまうことがあるのではないでしょうか。
今朝の箇所を読みますと、イエス・キリストは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませた後、群衆を解散させ祈るために山に向かわれたことを45~46節に書かれています。何を祈るために山に向かわれたのかは書かれていませんが、群衆や弟子たちのためにも祈られたことでしょう。弟子たちが向かい風に遭遇し大変なとき、イエス・キリストはその弟子たちのために祈っておられたのです。このときの弟子たちは、「イエス・キリストが自分たちのために祈っておられる」などとは想像もしなかったことでしょう。むしろ、「無理やり舟に乗り込まされなかったら」と思っていたかもしれません。私たちもそうです。「何で神様はこのように導かれたのか」というような不満を抱いている中にあっても、イエス・キリストは私たちのために祈ってくださっている方です。
そして48節に書かれていますように、「漕ぎあぐねているのを見て」おられる方です。ガリラヤ湖周辺はすぐに山になるわけではありません。1~2㎞は平地で、そこから山になります。弟子たちは湖の真ん中辺りにいるのですから、イエス・キリストから弟子たちの距離は「5㎞はあった」と考えられます。教会から直線で5㎞を測りましたら市役所位の距離となります。「昔の人は視力が良かった」と言っても、その距離を肉眼で見ることはできないと思います。でも、イエス・キリストは見ておられたのです。私たちがどのような状況の中にあろうとも、イエス・キリストは私たちを見守っていてくださる方なのです。
2)励まし強めてくださる方
第2にイエス・キリストは、励まし強めてくださる方です。弟子たちが漕ぎあぐねていたとき、イエス・キリストは水の上を歩いて弟子たちの近くを通り過ぎようとされました。おそらく、弟子たちが気づくために近くを通り過ぎようとされたものと考えられます。水の上を歩いておられるイエス・キリストを見た弟子たちは、幽霊だと思って怯えたことが49~50節に書かれています。幽霊だと思っても不思議ではありません。何故なら、水の上を人が歩くなんて考えられないことだからです。その怯えた弟子たちに向かって、イエス・キリストは「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけられました。この「しっかりしなさい」ということばは、「安心しなさい」とか「自信を持ちなさい」という意味のことばです。
この「しっかりしなさい」ということばは、単なる気休めのことばではありません。はっきりとした根拠を持って言われていることばです。例えば、マタイ9:2と22節です。2節は中風の人に言われたことばです。また、22節は長血を患っていた女性に言われたことばです。両方とも「イエス・キリストなら必ず治してくださる」という信仰を見られたからです。マタイは、それを根拠として用いているのです。また、ヨハネ16:33の「勇気を出しなさい」ということばも、今朝の箇所の「しっかりしなさい」と同じことばが用いられています。イエス・キリストは「なぜ勇気を出しなさい」と話されたのかと言いますと、弟子たちは後に苦難に遭遇するからです。でも弟子たちは、その苦難に対してキリストの証し人として歩み続けました。それはイエス・キリストのこのことばによって支えられていたからです。イエス・キリストが「勇気を出しなさい」と話された根拠は、「わたしはすでに世に勝ちました」というものです。これは後のイエス・キリストの復活を指しています。このときのイエス・キリストは、まだ十字架に架かって死なれていませんから、復活は未来のことです。しかし、イエス・キリストはもうすでに成されたものとして話されています。これを「預言的過去」とか「過去預言」と言います。
他の箇所にもありますが、時間的な関係で見ませんが、この「しっかりしなさい」ということばには確かな根拠があってのものです。では、今朝の箇所の「しっかりしなさい」の根拠は何でしょうか。それは「わたしだ」ということばです。イエス・キリストは男性だけで五千人の人の食事を与えられました。与えられただけでなく、彼らが残したパンを集めますと「12のかごいっぱいに集め」たことが書かれています。有り余るほどのものを与えられたのです。これは人の想像をはるかに超えたものです。この「わたしだ」というのは、「そのイエス・キリストがここに居る」ということです。「あなたがたと共にいるからしっかりしなさい」と弟子たちに言われているのです。
そのイエス・キリストのことばは、現代の私たちに対しても同じです。私たちもこの世において様々な信仰の戦いを経験させられます。その戦いは追い風のときもあれば、向かい風のときもあるでしょう。その向かい風があまりにも強いため前に進むことができなくなることもあります。そのような私たちに、イエス・キリストは「しっかりしなさい。わたしだ」と言って励まし強めてくださるお方なのです。主は無から有を造り出す不可能なことが何一つない神です。単なる気休めで励まされる方ではなく、しっかりとした根拠をもって励まし強めてくださる方なのです。
3)悟らせてくださる方
第3にイエス・キリストは、悟らせてくださる方です。弟子たちは、イエス・キリストが舟に乗り込まれたとき、風が止んだことに「非常に驚いた」と51節の最後に書かれています。その理由が52節に「 」と説明されています。弟子たちは、今まで多くのイエス・キリストの奇蹟を見て来ましたが、それらを通して理解できなかったのです。何故でしょうか。その理由は「心が頑なになっていたから」と書かれています。すなわち、心が閉ざされていたのです。でも不思議に思えないでしょうか。イエス・キリストを信じている弟子たちが、イエス・キリストへの心を頑なにしているのです。心を閉ざしているのです。イエス・キリストを信じる人がイエス・キリストに心を閉ざすことがあるのでしょうか。そのように思われる方おられるのではないでしょうか。
でも聖書は、52節で「 」と語っているのです。これはどういうことでしょうか。私たちは「神には不可能なことが何一つない」と信じています。でも、本当に信じているのでしょうか。この「本当に」というのは、「絶対に疑うことがない」という意味での「本当に」ということです。もし私たちが絶対に疑うことなく信じているのであれば、不安など抱くことはないのではないでしょうか。「なぜ不安を抱くのか」と言いますと、神の守りに疑いを抱いてしまうからです。それは目の前の事柄があまりにも大きいからです。あまりにも大きいが故に、目の前の事柄に思いが寄せられ、神の約束を忘れてしまうからです。これは「疑うことが悪い」とか「忘れてしまうことが悪い」と言っているのではありません。私たちはそのような者なのです。神から信仰が与えられていても、何かあったら神の約束を忘れてしまいやすい者なのです。
「具体的にどのようなものがあるのか」と言いますと、一番良い例が献金ではないでしょうか。「神は必要なものを必ず満たしてくださる」と言いつつ、10分の1の献金については「生活ができなくなりますから」という言い訳をしてしまいやすくなります。そうなりますと、この「神は必要なものを必ず満たしてくださる」というのは観念的なものです。単なる知識であって「信仰」とは言い難いものです。聖書が語っている信仰とはどのようなものでしょうか。ヘブル11:1に「 」と書かれています。「目に見えないものを確信させるもの」が、聖書の語る信仰です。すなわち、自分が信じていることを実際の生活の場で生かすものが聖書の語る信仰です。それは「不安がない」ということではありません。「大丈夫だろうか」という不安を抱きつつも、なお神を信じて行動するのが聖書の語る信仰です。何度も話していますが、不安を抱かないことが聖書の語る信仰ではありません。不安を抱きつつも、神を信じて生きることが聖書の語る信仰です。
このときの弟子たちは、イエス・キリストの教えを悟ることができず心は頑なになっていました。では、弟子たちはいつ悟ることができたのでしょうか。それはペンテコステの日以降です。ともすると、「この弟子たちの姿は私たちの姿そのものだ」と思ってしまいます。確かに、私たちの姿そのものです。しかし、今どれだけ心が頑なであろうとも、悟ることができないでいようとも、神は私たちの心を開くことのでき、悟らせることのできる方です。大切なのは、心が開いているか閉じているかではありません。悟っているか悟っていないかではありません。「私の心を開いてください。悟らせてください」という祈りです。この祈りをするかしないかが、私たちの信仰において最も大切なことです。神は私たちの心を開き悟らせることのできる方です。
結)
神は目には見えない方ですが、いつも私たちを見守り励まし悟らせてくださる方です。何故そのようなことができるのでしょうか。それは、神がいつも共にいてくださるからです。私たちは神の守り・悟りに対して鈍いものです。でも、そのような私たちを神は決して見捨てられることをされません。むしろ、悟ることができるために共にいてくださるのです。それを信じることが信仰の確信です。神のすばらしさを悟ることができるように祈っていきましょう。
マルコ6:35~44「弟子たちの誤解」 25.01.19.
序)
今朝の箇所は、聖書の有名な箇所の1つで「五千人の給食」というタイトルが付かれている箇所です。もう何度もこの箇所から教えられた方もおられることと思います。その多くは、「神は僅かなものを豊かに用いられる方である」というものではないでしょうか。今朝は、別の角度から見てみたいと思っています。それはイエス・キリストのことばを誤解した弟子たちです。みことばを誤解して受け取るとどのようなことが生じるかを共に教えられたいと願っています。
1)「自分たちだけで」という誤解
その第1は、「自分たちの力で何とかしなければならない」という誤解です。この五千人の給食の箇所を見る前に、この文脈を見てみたいと思います。この記事の前に何があったでしょうか。イエス・キリストは、弟子たちを派遣されたことが6:7以降に書かれています。14~29節は、バプテスマのヨハネがどのようにして殺されたのかということが挿入されています。そして、30~34節には弟子たちが伝道旅行から帰ってきたことが書かれています。弟子たちの働きは、とてもすばらしいものでした。6:12~13には「 」と書かれています。弟子たちは、この伝道旅行を通して改めてイエス・キリストのすばらしさを知ったことでしょう。その経験の後に、五千人の給食という出来事が起きたのです。
弟子たちは、イエス・キリストが長く話されていたので時間も遅くなり、解散することをイエス・キリストに勧めました。この弟子たちの行動は「当たり前」と言えば当たり前のことです。ところが、イエス・キリストは「あなたがたが、あの人たちに食べる物をあげなさい」と言われたことが37節に書かれています。それを聞いた弟子たちは何と答えたでしょうか。その後に、「私たちが…食べさせるのですか」と言ったのです。イエス・キリストは「あなたがたが」と話されたことばを、弟子たちは「自分たちだけで」と理解したのです。これは弟子たちの誤解です。イエス・キリストは「あなたがただけで」とは一言も話されてはいません。ただ「あなたがたで」と話されたのです。
このイエス・キリストのことばから、弟子たちは2つの方法を選ぶことができます。1つは、自分たちだけで五千人の人々を何とかして養うという方法です。今朝の箇所を読みますと、弟子たちはそのように理解したことが弟子たちの質問から分かります。このやりとりを見て、私たちも「弟子たちのように理解するのは当然ではないか」と思ってしまうのではないでしょうか。ですが「男性の数だけで五千人に食事を提供する」というのは、弟子たちだけではできないことは明白です。イエス・キリストは、そんな無茶なことを求められる方でしょうか。いいえ、絶対にできないことを人に求められる方ではありません。神が私たちに求められているのは、今の私たちにできることを求めておられるのです。私たちは、そのことをきちんと理解する必要があります。そのことを覚えつつ神のことばの意味を考えるのは大切なことです。弟子たちは、そのことができなかったのです。イエス・キリストのことばをストレートに捉えてしまったのです。これは私たちも陥りやすい誤解です。
もう1つの方法は、自分たちが共に心を合わせて神に祈り求めるということです。人には無理ですが神は無理ではありません。何故なら、神には不可能なことが何一つないからです。今年度のJBCのテーマは「ともに、主に整えられる」です。これはエペソ4:12の「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」というみことばからです。その意味することは、一人ひとりに与えられている賜物が用いられ、その賜物が用いられることによって教会を建て上げていくというものです。3年間のJBCのテーマには「ともに」ということばが使われています。また、今年度の春日井教会の標語は「励まし助け合う群れ」です。「ともに」も「○○し合う」というのは、決して一人ではできないものです。複数の人によって初めて成し得るものです。神は一人ひとりが神に祈ることを求めておられます。ですが、それだけでもありません。共に心を合わせて祈り合うことも求めておられるのです。今朝の箇所の「あなたがたが」と話されたイエス・キリストの真意はこれです。共に心を合わせて神に祈り合う。そのことを弟子たちに求められたのです。しかし、弟子たちはそのことを誤解し、「自分たちだけで」と捉えてしまったのです。
2)「自分は何もできない」という誤解
イエス・キリストが話された「あなたがたで」ということばの意味を誤解してしまったがために、弟子たちは「自分たちは何もできない」と思ってしまいました。これが弟子たちの誤解の第2です。この37節の弟子たちのことばは「そんな無茶なことを言わないでください」と言っているようにも聞こえます。37節のイエス・キリストのことばで弟子たちが目を留めたものは何だったのでしょうか。それはお金や食物という物質的なものです。そこに目を留めてしまったがために、37節に書かれているような返事になってしまったのです。最初の誤解が新たな誤解を生んでしまったのです。先程も話しましたように、イエス・キリストは私たちにできないことを求められる方ではありません。できることを求められる方です。ここで弟子たちは「共に心を合わせて神に祈る」ということができるのに、そのことに目を向けず物質的なものにだけ目を向けてしまったのです。そのため、「自分たちは何もできない」と捉えてしまったのです。
そのような捉え方は、私たちの中にも生じやすいものです。今まで経験したことのないものを体験するとき、まず私たちが考えることは「自分の力でできるのか」ということではないでしょうか。そして、できそうなものであれば受け入れ神に祈ることをしますが、できそうもないものであるなら神に祈ることすらしないで、「私にはできません」と断ってしまいやすいのではないでしょうか。それは、まさしく今朝の箇所の弟子たちと同じです。
その弟子たちの返事に対して、イエス・キリストは「パンはいくつありますか。行って見て来なさい」と言われたことが38節に書かれています。ここでイエス・キリストは、弟子たちが今あるものに目を向けるようにされました。「今あるもの」とは、「今与えられているもの」でもあります。イエス・キリストは無いものにではなく、「あるもの」「与えられているもの」に目を向けさせる方です。「ない」と決めつけてしまいますと、あるものまでも見えなくなってしまいます。何度も話していますが、創世記に書かれていますハガルがそうでした。彼女はアブラハムとの間にできた子イシュマエルが、アブラハムとサラの間に生まれたイサクをからかったのをサラが見たことによって、ハガルとイシュマエルは家から追い出されてしまいました。そして、食べ物の飲み物もなくなったとき、彼女は絶望に陥って泣き崩れました。すると、神の使いがハガルに声をかけました。そして、創世記21:19に「神がハガルの目を開かれたので」と書かれています。そのことによって、ハガルは井戸を見つけることができました。ハガルの目が開かれて井戸ができたのではありません。井戸はハガルが泣き崩れていたときから、すでにその場にあったのです。でも彼女は「もう何もない」と決めつけていたがために、あるものも見えなくなってしまったのです。このようなことは、私たちも陥りやすいものです。神は私たちに「ないもの」を求められる方ではありません。「あるもの」に目を向けることを求められる方です。今自分に「あるもの」「与えられているもの」に目を向けられるように祈っていきたいものです。
3)「私が」という誤解
第3に弟子たちが誤解したものは「私たちが」というものです。この「私たちが」とか「私が」という誤解は、私たちの中にも生じやすいものです。イエス・キリストは、弟子たちに「今あるもの」に目を向けさせたあと、「弟子たちに命じられた」と39節の最後に書かれています。このあとの主導権は弟子たちではなく、イエス・キリストであることが記されています。弟子たちがしたのは、そのイエス・キリストの手伝いにしか過ぎません。しかし、37節のイエス・キリストのことばから、弟子たちは「私たちがしなければ」と捉えてしまったのです。
人は「これしかない」と思い込みますと、もうそれしか思いつかなくなってしまいます。別の見方があるのですが、その別の見方ができなくなってしまいます。例えば以前にも使いましたが、ここに1つの絵があります。これは何の絵でしょうか。「馬」と思われる方がおられるかもしれません。これを「馬だ」と思い込んで見てしまいますと、もう馬しか見えなくなってしまいます。実は、ここには蛙の絵も描かれています。角度を変えてみますと「蛙」に見えるのではないでしょうか。私たちは1つのことを思い込んでしまいますと、なかなか別の角度から見ることができなくなってしまいます。弟子たちは「私たちがしなければ」と思い込んでしまったがために、別の角度からイエス・キリストのことばを捉えられなくなってしまうのです。それは聖書解釈においても同じです。何故なら、聖書は神のことばだからです。弟子たちがイエス・キリストのことばを決めつけて捉えてしまったがために誤解したのと同じように、聖書のことばも決めつけてしまいますと誤解してしまいます。
また、それは伝道にしてもそうです。「私がしなければ」と思い込んでしまいますと、先週触れましたように行き詰まって倒れてしまいます。確かに神は、私たちに証し人として福音を伝えることを命じられています。誤解を恐れずに話しますと、でもそれは「私が」というのではありません。私たちがするのは、神の働きの手伝いにしか過ぎないのです。あくまでも主導権は、神でありイエス・キリストなのです。神は私たちに良い結果を出すことを求めてはおられません。神の手伝いをすることを求めておられるのです。結果は神に委ねれば良いのです。私たちの証しや伝道は、その人と神との橋渡しなのです。聖歌578番の3節に「通り良き管となり、御恵みを取り継がん」とあります。まさしくそれです。ところが「私が」という思いが強くなりますと、間違った方向に進んでしまうことに気づかされます。
結)
弟子たちは、イエス・キリストの「あなたがたが」ということばを誤解して受け取ってしまいました。それによって、消極的・否定的な返事になってしまいました。私たちも聖書のことばを誤解して受け取ってしまいますと、律法的や結果重視に陥ってしまいます。そうなりますと、その人の信仰生活はとても辛いものとなってしまいます。神は私たちに感謝し喜びを持って歩むことを願っておられます。ローマ9:24に「 」と書かれています。神は私たち一人ひとりを「器」として用いてくださいます。「私のような者を器として用いてくださる」ということに感謝し、喜びをもって神のお手伝いをさせていただきたいと願います。決して、間違った意味での「私が」とならないように気をつけていきたいものです。
マルコ6:30~34「主は私の羊飼い」 25.01.12.
序)
もうすっかり正月気分もなくなられたことと思います。先週から日常生活に戻られた方が多いと思います。今年も様々なことを私たちは経験することと思います。ですが、その一つひとつを神は守り導いてくださいます。何故なら、主は私たちの羊飼いであられるからです。今朝は、その羊飼いであられる主を共に教えられたいと願っています。
1)羊の状態を知っている
まず、羊飼いは自分の羊の状態をよく知っているということです。御存知のように、羊は群れをなして行動する動物です。ですが、羊飼いは各々の羊の状態を把握しています。体調が良くなければ、その羊に合わせて行動します。決して放ったらかしにして、羊飼いのペースで羊を連れて行くことはしません。そのようなことをしたら、体調の良くない羊は置いてきぼりにされてしまい、迷子になったり狼などの餌食になってしまうからです。
今朝の箇所は、実は13節の続きです。イエス・キリストの弟子たちは、2人一組となって伝道しました。その伝道から帰って来ての報告が今朝の箇所です。すると、イエス・キリストは「さあ、…休みなさい」と言われたことが31節に書かれています。弟子たちは、自分たちの伝道に良い成果があったことに喜んだことでしょう。そのようなときは、「疲れ」というものを感じることは少ないものです。でも、実際に身体は疲れています。イエス・キリストは、その弟子たちの状態をよく御存知だったのです。だから、「寂しいところへ…休みなさい」と言われたのです。
このことは私たちにおいても同じです。働いてばかりいると疲れてしまい健康を損ねてしまいます。ですから、休むことも大切です。しかしながら、休んでばかりいても健康を損ねてしまいます。私たちの身体は、動かすことと休むことで生活のリズムができ、健康な状態を保つことができます。そのことは、「信仰」という霊的な面においても同じことが言えます。神のために働くのはすばらしいことです。ですが、休むことをしないで神のために働き続けるというのは、実は聖書的ではありません。ある方は「休むことを惜しまず神様のために働くのは良いことではないか」と思われるかもしれません。しかし、神を信じる者にも信仰生活のリズムが与えられています。その信仰生活のリズムを崩してしまいますとどうなるでしょうか。「燃え尽き症候群」というのが生じてしまいます。これは現代の牧師において大きな課題の一つとなっています。ある団体の調査を聞きましたが、20年程の直接献身者を調べますと、約3割の教職者が辞職されたり、休職されたりしているとのことです。その要因の一つが「燃え尽き症候群と考えられる」ということです。
イエス・キリストは、私たちの身体のリズムをよく御存知です。ですから、弟子たちに休むことを勧められたのです。神は私たちの肉体的状態や霊的状態をよく御存知です。何故でしょうか。それは私たちの羊飼いだからです。神はいつも私たちに良い方法をとってくださるお方です。
2)他の羊の状態も知っている
第2に、羊飼いは自分の羊以外の羊の状態も分かるということです。羊飼いは、自分の羊の状態をよく知っていますから、他の羊に対しても「自分の羊と比べてどうなのか」ということが分かります。イエス・キリストは、多くの群衆をご覧になって「彼らが羊飼いのいない羊のようであった」と思われたのです。どのようなことから、そのように思われたのでしょうか。それは彼らの行動によってです。弟子たちは疲れていました。しかし、人々は弟子たちの疲れなど全く気にもしないで、自分たちの心が満たされたいがために、イエス・キリストを追っかけていたのです。そこには配慮が全くありません。ある心理学者は「人は誰でも心の壺を持っている」と言われています。「自分の心の壺が満たされていたら他の人にも分かち合うことができますが、心の壺が満たされていないときは満たされるまで受け続けることに必死になり、他の人に分かち合う余裕などはない」というのです。まさしく、今朝の箇所の群衆は、自分の心が満たされていない状態そのものではないでしょうか。自分の心を満たすことで精一杯になり、他の人のことなどに気遣う余裕など全くありません。イエス・キリストは、その人々の心の中を御存知だったのです。それは羊飼いのいない羊そのものだったのです。
羊飼いのいない羊はどのようなものでしょうか。羊はすぐに迷子になってしまいます。ですから、羊飼いがいないと不安になってしまいます。どのような不安が生じるでしょうか。1つは、進む道を見出だすことができないという不安が生じます。どの方向に進めば良いのかが分からなくなります。聞いた話ですが、ある羊飼いが小羊を肩に担いで歩いていました。そして、その近くに母親の羊が歩いていました。その光景を見た人が「なぜ小羊を担いでいるのですか」と羊飼いに尋ねました。すると、羊飼いは「私の近くにいる羊はすぐにはぐれてしまいます。この羊はこの小羊の母親です。この小羊を担いでいると、この母親羊は必ず着いてくるのです。ですから、決してはぐれることはありません」と答えたというのです。羊は自分が行くべき所にどのように行けば良いのかが分かりません。ですから、迷子になってしまうのです。行くべき所。それは目指す場所であり目的地です。聖書は人を羊に譬えて語っています。それは羊にも行くべき所があるのと同じように、人にも行くべき所があるということです。人が行くべき所は何処でしょうか。それは天の御国です。その導き手として、イエス・キリストはこの世に来てくださったのです。まさしく、イエス・キリストは羊飼いそのものです。では、人は天の御国に行って何をするのでしょうか。神と共に過ごすことはもちろんですが、天の御国で何がなされているのかと言いますと、ヨハネの黙示録を見ますと神を礼拝していることが分かります。人は何のために天の御国に行くのかと言いますと、神を礼拝するためです。何度も語っていますが、イエス・キリストがこの世に来られた目的はここにあるのです。それは人が神のみわざに感謝し、その神を礼拝する者として歩み続けるためです。
羊飼いのいない羊のもう1つは、迷子の状態にあるのですから心に不安を抱いてしまいます。どの方向に進めば良いのかが分かりませんから、あちらこちらへとさ迷い歩きます。そして求め続けます。イエス・キリストは群衆をご覧になって、心の壺が満たされていないことに気づかれたのです。心の壺が満たされていない人は、その心の壺を満たしたいがために物質的なもので満たそうとします。しかしながら、残念なことに心の壺を満たすことはできません。何故なら、心というのは目に見えないものだからです。目に見えないものに、目に見えるもので満たそうとしても決して満たされるものではありません。霊的なものに物質的なもので満たそうとしても満たされないのです。ちょっと考えれば分かることなのですが、それがなかなか分からないのが私たち人間です。羊飼いのいない羊のようである人は、その心の食物に不安を抱いているのです。でも、それを見えるもので満たそうとしているのです。その表れが偶像です。見えない神を見えるもので形作って拝むことによって、心の飢え渇きを満たそうとします。でも、見えるものでは決して満たすことはできないのです。
羊飼いのいない羊は食物への不安だけではありません。羊は弱い動物ですから、獣から自分の身を守ることができません。獣から身を守ってくれるのは自分の羊飼いしかいません。羊飼いのいない羊は、その羊飼いがいませんからいつも怯えながら生きるしかありません。人の人生も同じです。これから先何があるか分かりません。分かっているのは様々な困難に直面するということです。自分の知恵や力で解決できるものもありますが、全てが解決できるわけでもありません。ある方は「その時になったら考えれば良い」と思われるかもしれません。しかし、羊が獣に襲われてからでは遅いのと同じように、「その時になったら」ではもう遅いのです。
確かに、神であられる主を信じたら危険なことを経験することはないというわけではありません。神を信じていても危険なことや苦しいことを経験します。今日の聖書交読の箇所である詩篇23:4に「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても」と書かれています。これは「命を失うかもしれない」という危険な苦しみに遭遇することを表しています。神を信じていても、そのような事柄に遭遇することがあるのです。ですが、そのような中にあっても神は共にいてくださって守ってくださいます。羊を見て獣が襲ってきても、羊飼いが居れば襲ってきた獣と戦い羊を守ってくれます。だからと言って、「羊は安心しているのか」と言えばそうではありません。羊の心の中には不安があります。ですが、羊飼いは自分の命を張ってまでも獣と戦い倒すか追い返して羊を守ろうとします。イエス・キリストもそうです。私たちの人生の歩みを守ってくださるお方です。
結)
ヨハネ10:11に「 」と書かれています。イエス・キリストは、私たちにとって良い羊飼いです。私たち一人ひとりのことをよく御存知です。何故なら、イエス・キリストは私たちの本当の羊飼いだからです。そのイエス・キリストに、私たちは日々守られていることを覚えつつ歩まされていきたく願わされます。
マルコ6:17~29「神の憐れみと恵み」 25.01.05.
序)
新年あけましておめでとうございます。主にあって新しい年を迎えられたことを神に感謝したいものです。今朝の箇所に登場するヘロデ王は、イエス・キリストは誕生されたときのヘロデ大王とは違います。ヘロデ大王には7人の息子がいました。その中の「ヘロデ・アンティパス」という人がヘロデ大王の後を継いだのです。今朝は、このヘロデ王を通して神の憐れみと恵みを共に教えられつつ、私たちも神の憐れみと恵みの中に生かされていることを知ると同時に、この新しい年も神の憐れみと恵みの中にあることを覚えたいと願っています。
1)自分の願いを優先する人
まず、ヘロデ王は自分の願いを優先する人でした。バプテスマのヨハネが捕らえられ、牢に入れられた理由が18節に書かれています。それはバプテスマのヨハネがヘロデ王に、「あなたが兄弟の…律法にかなっていない」と指摘したからです。ヘロデ王は、自分の兄弟であるピリポの妻であったへロディアが好きになり自分の妻にしたのです。実は、このことは律法によって禁じられています。レビ記20:21に「 」と書かれています。ですが、ヘロデ王はへロディアの魅力に憑りつかれてしまったのか、自分の妻にしてしまったのです。ヘロデ王は「このことが律法に背いている」ということを知っていたにも関わらず、自分の心を満たしたいがためにへロディアを妻にしてしまったのです。社会は、そのヘロデ王の行為を黙認していました。人々は「ヘロデ王の罪を指摘したら、自分がどのような仕打ちを受けるか分からない」という恐怖で指摘することができなかったのです。そのような社会ですから、さらにヘロデ王は自分の好き放題のことをしていたのです。
ところが、バプテスマのヨハネはヘロデ王が罪を犯していることを指摘したのです。誰でも自分の罪を指摘されて嬉しくはありません。そのため、ヘロデ王はバプテスマのヨハネを牢に入れたのです。クリスマスのときに話しましたが、「忌」という漢字の中には「汚れ・不吉・憎むべきもの」という意味があります。その「忌」という漢字を分解しますと「己」という漢字と「心」という漢字で形成されていることが分かります。何よりも汚れており不吉であり憎むべきものは自分の心です。私たちも自分勝手で、自分のことを優先してしまいます。他人のことは簡単に指摘しますが、自分のことになると様々な言い訳をして「仕方ないじゃない!」と言って擁護しようとします。「本当に自分優先であるな!」というのを思わされます。そのように思いますと、ヘロデ王と自分とは何ら変わることのない者であることに気づかされます。
2)悔い改められない人
次に、ヘロデ王は悔い改められない人でもありました。ヘロデ王は自分の罪を指摘したバプテスマのヨハネを捕らえました。しかし、「彼を殺したい」と思いつつも「保護していた」と書かれています。何か矛盾しているようにも思えます。「殺したい」と思いつつも殺せないでいたのは何故かと言いますと、20節の後半に「彼を恐れて保護し…傾けていたからである」と書かれています。おそらくヘロデ王は、自分の罪深さを知っていたように受け取れます。そして、その自分の罪に悩んでいたようにも受け取れることばです。ですが、ヘロデ王は自分の罪を悔い改めることができなかったのです。何故でしょうか。「悔い改める」ということは、今までの自分の歩みが間違っていたのを認めることになります。それを認めることができなかったのです。
でも神は、その自分の罪を認めて告白することを求めておられます。例えば、アダムとエバが罪を犯したときがそうです。アダムとエバは神に罪を犯したことに気づき、神が園を歩き回られる音を聞いてどうしたでしょうか。創世記3:8の後半に「それで人とその妻は…園の木の間に身を隠した」と書かれています。そのため、神は人に「あなたは何処にいるのか」と呼びかけられたことが9節に書かれています。これは、神がアダムとエバが何処にいるのかが分からなかったのではなく、出てきて罪を犯したのを告白することを求めておられるということです。それは、アダムとエバの息子カインに対してもそうです。カインは弟アベルを殺してしまいました。神はそのことを御存知の上で、カインに「あなたの弟アベルは何処にいるのか」と尋ねられたことが4:9に書かれています。これも神はカインに、自分がしたのを告白することを求めておられるのです。しかし、彼らは自分が犯した罪を告白せず、むしろ「言い訳」とも取れるような答えしかしなかったのです。神は人が罪を犯したとき、いつも自ら進んで告白することを望んでおられます。
罪を犯さないことはすばらしいことです。しかし、人は誰もが罪を犯してしまう存在です。神は私たちに罪を犯さないことを願っているのではありません。先程も話しましたように、私たちは罪を犯してしまう存在です。ですから、神は人が罪を犯さないことを願っておられるのではなく、罪を犯したとききちんと告白し、悔い改めることを願っておられるのです。「何故人は犯した罪の告白を恐れるのか」と言いますと、「審かれるのではないか」と思っているからです。ですが、先週の箇所でも見ましたように主は赦しの神です。ヘロデ王は、神が赦しの神であられることを知らなかったがために、自分の罪を悔い改めることができなかったです。
3)人の目を意識する人
第3に、ヘロデ王は人の目を意識する人でした。ヘロデ王は自分の誕生日にパーティーを開き、ガリラヤ地方の主だった人たちを招きました。そして、22節には娘の踊りに対して「何でも…お前にあげよう」と約束しました。すると、その答えは「バプテスマのヨハネの首」というものでした。ヘロデ王は、その求めに対して断ることもできたのですが、娘の願いを退けることをしないで実行しました。その理由が26節に「列席の人たちの手前もあって」と書かれています。すなわち、ヘロデ王は人の目を気にしたのです。
もし、ヘロデ王は断ったら、「ヘロデ王は自分が約束したことを果たさない人」という噂が立つでしょう。すると、ヘロデ王の信頼は薄れてしまいます。ヘロデ王はそのことを恐れてしまったのです。ヘロデ王が恐れていたものは、「周りの人が自分をどのように見るか」という世間の目です。この準備をしているとき、コロナ感染の時のことを思い出しました。ある教会の方が「極力教会に集うのをやめている」と話されていました。その理由は「教会で集会を開くことによって、周囲の人たちがどのように思うかが気になるから」というものでした。私はそのことばを聞いて、戦前の日本の教会を思い出しました。戦前の多くの日本の教会は戦争のために祈りました。何を祈ったのかと言いますと、戦争に勝つことを祈ったのです。そして、礼拝堂の中に天皇の写真が掲げつつ礼拝をしていました。戦後、日本の教会はそのことを告白し悔い改めました。しかし、コロナ感染のとき似たようなことをしてしまったのです。
コロナ感染が拡大し始めたとき、命を落とされる方々が大勢おられました。ですから、「集会を開いて他の人に感染させて命を落とされるのを避けるために集会を開かない」というのなら分かりますが、「周囲の人たちからどのように思われるかが気になる」というのは間違ったことです。私の知り合いの牧師は「コロナ禍のときも教会で礼拝を献げていた」と話されていました。その先生は「オンライン礼拝が聖書的にどうなのか」と思われていたというのです。オンライン礼拝を否定されているのではありません。ただ、その先生の中で「オンライン礼拝が聖書的なものである」ということが明確に示されていないので、教会に集い礼拝を献げていたということでした。教会に来られない方々もおられたようですが、それはそれで受け入れつつされていたとのことでした。
ヤコブ4:17に「 」と書かれています。ここに書かれています「良いこと」とは、自分の目から見た良いことではありません。自分の目から見た「良いこと」というのは主観的なものです。そうではなく、客観的に見た良いことです。私たちにとって客観的に見て良いこととは神のことばです。何度も話していますが、イエス・キリストが十字架に架かられた目的は、私たちの罪が赦され神の審きから救われるためではありません。それは信じたことの結果であり目的ではありません。イエス・キリストが十字架に架かられた目的は、私たちの罪が赦され神の審きから救われたことに感謝し、その神を礼拝する者として生きるためです。私たちが今この所で集い共に主に礼拝を献げているのは、1週間の歩みが守り導かれたことへの感謝と神の赦しと救いへの感謝を見える形として表すためです。このヤコブ4:17に書かれています「良いこと」とは神の御心を行なうことです。決して、自分の目から見た良いことではありません。神の御心を知りながら行わないなら、「それはその人の罪である」と語っているのです。
26節に、ヘロデ王は「非常に心を痛めた」と書かれています。何故非常に心を痛めたのでしょうか。それは「こんなことで一人の人間の命を奪うことは間違っている」と思ったからです。しかし、彼の心は「周囲の目」・「世間の目」が優先してしまったのです。そのためバプテスマのヨハネの首をはねることを許可したのです。まさしくヘロデ王は、人の目を意識する人でした。
結)
今朝は、ヘロデ王を通して見ました。このヘロデ王はひどい人のように見えます。しかし、自分の願いを優先したり、自分の罪を指摘されても悔い改めず、世間の目を気にする姿を見るとき、それは普通の人の姿であることに気づかされるのではないでしょうか。そして、その普通の人の姿の中には「私もいる」ということにも気づかされるのではないでしょうか。このヘロデ王の姿は、まさしく私たちの姿なのです。そのような私たちが、今イエス・キリストを信じ主を礼拝する者として生かされているのです。何故でしょうか。私がすばらしいからでしょうか。青書は何と語っているでしょうか。エペソ2:10の後半に「神は…備えてくださいました」と書かれています。ここにも「良い行い」と書かれています。この「良い行い」とは、ヤコブ4:17の「良いこと」と同じように、神の御心に沿う行いのことです。それはイエス・キリストを信じ主を礼拝する行いのことです。そのような歩みも、全ては神があらかじめ備えてくださったものなのです。私たちは、その神の備えの中に生かされているのです。まさしく、神の憐れみと恵みの中で生かされているのです。そのことに感謝しつつ、新年も主を礼拝し続ける者として歩み続けられるように祈っていきましょう。