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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2024年7月 7日 14日 21日 28日 目次に戻る
 2024年7月28日 
「道・真理・命」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書14章1−10節



 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」(1節)

 十字架を前にして、イエス・キリストが弟子たちに向けて語られた遺言のような言葉です。「騒がせる」という言葉の原語「タラッソー」は、水が掻き立てられる動きを意味します。わたしたちの心を水に例えるならば、心の水面は何事もなければ波立つこともないわけですが、様々なことが起こると掻き立てられる、激しく泡立ち揺れ動くという状態になります。



 この時弟子たちの心はまさに、掻き立てられている、穏やかではいられない状態でした。何故ならば、主イエスが弟子たちに向かって「いましばらく、わたしはあなたたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。わたしが行く所にあなたたちは来ることができない。」と言われたからです。イエス様はどこかへ行かれるのか、いなくなってしまうのか…弟子たちにとって、イエス様がそばにいてくださるということは、大きな安心感であり、これから先もずっと続くと思っていたのではないでしょうか。



 わたしたちは家族のこと、病のこと、生活のことなど、心騒がせる様々な出来事に日々直面します。しかし主イエスはそのようなわたしたちに向かって、神を信じまたイエス・キリストを信じなさいと力強く呼び掛けてくださるのです。



 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節)

 イエスを救い主と信じる、それこそがわたしたちが神のもとに行くことができる唯一の道であることが語られています。イエス・キリストがどのような救い主であるかが、明確に示されています。
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 2024年7月21日 
「新しい掟」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書13章31−35節



 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 34節からは、イエス様が弟子たちに向けて語られた遺言のような言葉が記されています。「新しい」とありますが、「隣人を愛しなさい」という教えはレビ記19章にも記されているように、昔からあるユダヤの律法にある教えです。主イエスは「新しい掟」として「互いに愛し合いなさい」と言われました。この地上を去るときが迫っているという中で主イエスが言われた「互いに愛し合いなさい」という教えは、どこが新しいのでしょうか。



 それは「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉がついているところにあると思われます。この上なく弟子たちを愛された愛、その愛は、ついには一粒の麦としてご自分の命を捨てることによってわたしたちに与えられました。



 ヨハネによる福音書では、特に弟子たちという共同体において「互いに愛し合う」ということが求められています。遠くに住む知らない誰かのために愛を示すということではなく、身近にある交わりの中でそれが求められています。ここでは「弟子たち」ですが、今のわたしたちにとってそれは「教会」であり「家族」なのではないでしょうか。



 「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 互いに愛し合うことができたら、その姿はキリストの弟子であることを示す、証しになると語られています。難しい課題ですが、できない自分を見つめるのではなく、その愛を示してくださったキリストを見続けたいと願います。
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 2024年7月14日 
「弟子の足を洗う」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書13章1−11節



 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(1節)

 この地上を去る時が来た、イエス様はそのことをはっきりと自覚されていました。そして弟子たちを「この上なく愛し抜かれた」とあります。「この上なく」ということは、「最後の時まで」ということでありまた「極限まで」という意味でもあります。そしてそのすぐ後に、イエスを裏切る考えを抱くユダのことが記されています。イエス様が愛し抜かれた弟子たちとは、ユダも含めてすべての弟子たちであったことが示されています。



 ペトロの足も、ユダの足も、弟子たち全員の足を洗われた後、主イエスは弟子たちに「わたしがあなた方にしたことがわかるか」とお尋ねになり、さらに「主であり、師であるわたしが足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗いあわなければならない。わたしがあなた方にしたとおりに、あなた方もするようにと、模範を示したのである。」と語られました。



 他の福音書の最後の晩餐の場面を見ると、弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いのか、ということで言い争っています。食卓の席のことでも、誰がどこに座るのか…など、争いの種になったのではないでしょうか。だからこそ主イエスは弟子たちに「足を洗う」ということを通して模範を示されたのです。



 東京聖書学校の卒業式で、信徒会代表の方から毎年贈られる記念品が「手ぬぐい」でした。。これから教会に遣わされて先生と呼ばれるようになる卒業生に、仕える者となるようにと弟子の足を洗われ模範を示された主イエスの姿を忘れないようにとの思いが込められています。
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 2024年7月7日 
「一粒の麦」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書12章20−26節



 過越し祭にはイスラエルに住むユダヤ人だけではなく、外国に暮らすユダヤ人、さらには異邦人も礼拝のために、エルサレムへと集まってきました。神殿には異邦人の庭があり、ユダヤ教に改宗した異邦人たちはそこで礼拝をささげることができたのです。



 小見出しには「ギリシア人、イエスに会いにくる」とあります。イエス・キリストについての様々なうわさ、ラザロが生き返った話なども耳にして、自分たちも主イエスに会ってみたい、そう思ったのではないでしょうか。弟子のフィリポのところに行って「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ、とあります。ここでギリシャ人が登場したということには、大変大きな意味があると思います。それは、イエス・キリストによる救いというものがユダヤ人だけではなく、民族の壁を越えて世界中のすべての人に与えられるものであることが示されているからです。



 「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)

 主イエスは今まで何度も「わたしのときはまだ来ていない」と言われました。しかしついにここで、神様の救いの計画の中で定められたときが来た、と言われました。そしてそれは、主イエスが「栄光を受ける時」でありました。オリンピックで表彰されるような晴れがましいときではなく、ご自分の命を捨てるということにおいて受けられる栄光でありました。



 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)一粒の麦として、主イエスが十字架の上で命を捨ててっくださった、そのことによって多くの人が、あらゆる壁を乗り越えて世界中のすべての人が救いに招かれているのです。
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