【福音宣教】  救い主と出会った人々 ベツレヘムの羊飼いたち

今日、ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」ルカ2:11)
 

クリスマスおめでとうございます

1. 最初のゲストとして招かれた羊飼いたち

1)ベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶に眠る赤子を最初に探し当て、礼拝を捧げたのはベツレヘムの野原で野宿しながら羊の世話をする羊飼いたちでした。彼らにスポットをあててクリスマスストーリーをお伝えします。「今日、ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主キリストです」(11節)。天使の御告げを聞いた羊飼いたちは、熱心にあちらこちら町中を探し回ってついにキリストが生まれた家畜小屋を見つけました。

2)しかし視点を変えれば赤子の姿をとられたイエス様が最初に招いたゲスト、ファーストゲストは名もない貧しい羊飼いたちであったと言えます。当時、羊飼いたちは貧しい肉体労働者たちでした。 野宿しながら羊の見張りをすると言った過酷な労働条件で働いていました。貧しいばかりでなく、社会的にも差別されていました。石大工のヨセフでさえ、住民登録せよとの通達を受け取っていましたが、羊飼い達は除外されていました。住所不定の上、住民登録をしても税金は払えないし、学歴もないから兵役に就いても役に立たないとみなされていたからです。国から差別され忘れられた存在 であり、社会の片隅に弾き飛ばされた人たちでした。当然ながら彼らには人間としての尊厳もまた人権も認められていませんでした。そんな彼らを救い主イエス様は最初の礼拝者として招いてくださいました。この世の人々からたとえ置き去りにされても、忘れられても見捨てられても、役に立たない価値がないとレッテルを貼られても、神の御子は決して置き去りにされることはありません。誰よりも真っ先に御許に招いてください「ファーストゲスト」という特権を与えてくださったのです。

3) 皆さんも自分が教会に来たのだと考えておられるかもしれませんが、そうではなく、むしろ救い主に招かれ、招待されたのです。聖い神の御前に最も遠い存在であるはずのこの罪深い私が、神の最も近くに招かれたということは、神の恵み以外のなにものでもありません。信仰はいつでも、神の招きから始まるのです。「私が」の世界ではなく、「神が」イニシャティブを取られるのです。


2. 旧約聖書に救い主キリストについての次のような預言が記されています。

「貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついたものを癒すために私を遣わされた」(イザヤ611)。傷ついたものを癒すためメシヤ・救い主が遣わされるとの預言です。

1)「癒す」という言葉は「救い」あるいは「慰め」と置き換えることができる同義語といわれます。羊飼いたちが見出した救い主は、飼い葉おけの中で安らかに眠る赤子でした。赤ちゃんは小さくて無知で話すことも歩くことも何かをすることもできません。にもかかわらず赤ちゃんほど、人に癒しと救いと慰めをもたらす存在は他には見当たりません。私の妹は出産の陣痛に耐えれず、「もう赤ちゃんいらない」と口走ったために看護師さんから怒られたそうです。強面のいかめつい男性であっても赤ちゃんを抱けば「パパでちゅよ」と赤ちゃん言葉で話しかけています。赤ちゃんは世界で一番大きな癒しと慰めと希望の力を内に秘めている最高の存在と言えますね。どんな医者よりも癒す力が強く、どんなカウンセラーよりも慰めと希望を与える力が豊かで、どんな金持ちよりも心を喜びで満たしてくれます。


2)「心が傷ついている者」とは、様々な人生の重荷で疲れ果て、心打ちひしがれてしまった人たちを指します。昔から「生老病死」を人生の4大苦と言います。生きることの難しさ(その中軸は貧しさとの戦いと悩みの8割を占めるというような人間関係の悩み)、 老いていく悲しみ、 病に伏せる(身体的 精神的 社会的な痛み) そしていつかは迎える死の現実とそこに伴う不安、恐怖、虚しさ。これらの人生の苦悩は、私たちに命を与えてくださった創造主である神様を忘れ果ててしまった生き方、それを聖書は罪と言いますが、そのような神様との断絶した生き方から始まる、そこに根本的な原因があると聖書は教えています。


3)この1年いろいろな出来事が 皆さんの生活にも起こったことでしょう。 楽しいことも辛いことも。たとえば、孫が生まれたという誕生の喜びもあれば家族との悲しい別れを経験した方もおられます。 人間だけでなく家族同然のペットとの別れを経験した方もおられます。健康だったのに思いもよらない病気の宣告を受けて、自信をへし折られ、心くじけてしまった経験を味わった方もおられることでしょう。何気ない他人の言動につまずき、傷ついてしまった苦い思いを抱いている方もおられることでしょう。 なかなか癒えない心の挫折、深い痛みを「心の傷(トラウマ)」とも言います。赤チンを塗って絆創膏を貼って、「はい」終わりという簡単なものでは決してありません。心の傷はそう簡単には癒えないものです。10年前の出来事さえ、つい昨日のように思い出してしまうのです。なぜならその時から心の時計が止まってしまっているからです


4)今年の7月から半年間、私は関西学院大学の「悲嘆と死別の研究センター」が主催する20回のオンラインセミナーを受講しました。色々な死別があり悲しみの形があります。子供の死、配偶者の死、親の死、兄弟の死 孫の死 突然の予期できない死 自死 流産や死産 ペットの死 行方不明というようなあいまいな死。年を取ればいずれ誰も配偶者の死を経験することになります。日本では年間58万人の人が配偶者に先立たれています。一人一人の悲しみは誰の悲しみにも似ていません。一つとして全く同じ悲しみなども存在しません。その重荷と悲嘆を抱えながらも、それでも生活の再健に向かって歩みだしていくことは、それは並大抵のことではないと言われています。

こうした死別の悲しみの中にある人々を支えるために、様々な自助グループが形成されています。西洋では「喜びは2人で分かち合えば2倍になり、悲しみは2人で分かち合えば半分になる」という言葉がありますが、支援グループ根本理念となっています。

 20回にわたる講座の締めくくりとして、主催した赤田ちづる教授は「私たちにできること、それはあなたは一人ではないという気持ちを伝え続けていくこと」と語られました。何かをしてあげることが支援ではなくて、いつもそばに寄り添っていることが真の支援。教授は、子供を交通事故で亡くしたお母さんの言葉を引用して結びとされました。「ずっと見守ってくれる人がいたということが、私を慰め、私を勇気づけてくれました」と。そばに寄り添ってずっと見守ってくれていること。それが慰めである、癒しである、救いでもあるというのです。

もちろん人間は万能でも全能でも完全でもありません。 だからこそ永遠に変わらない愛を持って「私はあなたを愛している。あなたを忘れることなく、ずっとあなたを見守っている」と約束してくださる神を信じることが、真の慰めとなり勇気となり救いとなるのではないでしょうか。


ベツレヘムに救い主イエスキリストが誕生しました。天使はヨセフにその名を「イエスと名付けなさい」と命じましたが、彼にはもう1つの永遠の名が与えられていました。「その名はインマヌエル(神が私たちと共におられる)」という意味の名前です。このお方は、私たちと共におられる永遠の神、私たちが神を忘れるようなことがあっても、決して私たちを忘れ去るようなことをなさらない真実な方です。

「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」 (ロマ58

 赤子のイエス様の中に、飼い葉桶の中で眠るキリストの中に、
              真の慰めと希望と救いを見いだすことができる人々はなんと幸いな人々でしょうか