【福音宣教】  神の御子イエスの洗礼

イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマを受けらえた」マルコ1:9)

今日から再びマルコ福音書の学びに戻ります。今年のイースターは4月20日です。イエスキリストを信じ、水のバプテスマを受け、罪の赦しと永遠のいのちを得て、神の御国の国籍を持つ、新しい神の家族が誕生する喜びを祈りつつ待ち望みましょう。さらに宇治バプテスト教会と言う信仰の共同体、目に見える神の国と呼ばれる教会の新しいメンバーとして転入会され、ご一緒に奉仕と献身の生涯を歩んでいただければと願います。2025年と言う区切りの年ですからふさわしいのではないでしょうか。

1. イエス様のバプテスマ

9-11節では、イエス様がバプテスマをお受けになる出来事が記されています。なぜイエス様はバプテスマを受けられたのでしょうか? ヨルダン川でバプテスマのヨハネが民衆に悔い改めを語り、水による清めのバプテスマを授けていました。そこにイエス様が現れ、自らもバプテスマを希望されました。ヨハネはきっと驚いたことでしょう。なぜなら、ヨハネはキリストの前では靴の紐を解く値打ちもない小さな者にすぎないこと、その方は水による清めのバプテスマではなく、聖霊によるいのちのバプテスマを授けるお方であることを知っていたからです。罪なき神の御子イエス様が、悔い改めと清めのバプテスマを受ける必要などまったくないからです。ところがイエス様はマタイ3:15では「今はそうさせていただきたい。すべての正しいことを実行するのは私たちにふさわしいことだから」と明瞭に答え、自ら進んで洗礼を受けられました。

正しいこととは、神の御心にかなったことであり、祝福に通じる歩みの第一歩です。

神の御心にかなうことで祝福から外れてしまうようなことは決してありません。主の御心は真実であり、正しく、幸いを従う者にもたらします。主のみこころの中を歩むことは正しいことであり、もっとも幸いなことなのです。イエス様はヨルダン川でのバプテスマからカルバリの丘の十字架の死に至るまで、神のみこころのただ中を歩まれました。それが正しいことであり真実な道であり、人々にまことのいのちを与える道であることを理解していたからです。これが答えです。

神様を信じ、イエス様を信じるだけで十分じゃないですか。伝統的な儀式にすぎないバプテスマを受ける必要があるのでしょうかと思い、ためらう方もいらっしゃることでしょう。イエス様が「正しいこと」とされ、自ら進んでバプテスマを受けられたのですから、安心してあなたもバプテスマをお受けになられてはいかがでしょうか。

心の中で信じてさえいれば十分ではないかと考えておられる方もおられます。牧師先生と二人だけでこっそり、バプテスマを受けたいのですがと希望された方もおられます。しかし神様は「あなたの口でイエスを主と告白しあなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ロマ109-10)と教えています。イエス様は多くの人々が押し寄せ見守っているヨルダン川で、「公に」バプテスマをお受けになられました。こっそりバプテスマをお受けになる方は、天国にもこっそりと入ることになるかもしれません。天国にこっそり裏口から入るのではなく、堂々と誇りをもって、洗礼証明書を携えて、正門から入っていただきたいと願います。

2. 罪人となり切られて

神の御子イエス様が、罪の赦しと悔い改めのバプテスマを受けられた第2の理由があります。それはイエス様独自の使命でした。イエス様以外にも誰にもできないことだからでした。神の御子なる罪なき聖なる尊いお方が、洗礼者ヨハネから水のバプテスマをお受けになったもっとも深い理由は、神の御子が私たちと同じ罪人の一人となられ、罪人の一人と数えられるためでした。イエス様は天から地にくだり、人類の一員となられ、この地上を歩まれ、罪人の一人としての立場を取られました。このことは、神の御子の謙遜の極みを表していますが、それ以上に、神の御子が罪人の一人となり切ってくださったことを意味しています。罪を知らない聖い人であるならば、悔い改めのバプテスマや清めのバプテスマを受ける必要などありません。けれどもイエス様は、神の御子としての特権と栄光のすべてを捨てて、人となり切って(ピリピ26-8)、罪人の一人と数えられることを拒まず、良しとされ、やがてカルバリの丘で全人類の罪をその身に負いきり十字架で死なれ、罪の縄目と審判と滅びから救いだしてくださったのです。

2コリント521「神は罪を知らないお方を、私たちの代わりに罪とされた。それは私たちがこの方にあって神の義となるためである。」

神の御子は宮殿ではなく家畜小屋の飼い葉おけの中で産声を上げました。貧しい石大工の子としてナザレの村で貧しさも父ヨセフの死の悲しみも、生活の苦しみも、あらゆる労苦を味わい、ヨルダン川で洗礼を受け、公生涯に立ち上がられました。

ヨルダン川は世界で最も深い所を流れる川だそうです。海面下343メートルの死海に流れ込む川だそうです。イエス様のご生涯はすべてが最も低い所から始まっています。それはイエス様が誰一人、忘れることなく、漏れ落とすことなく、最も低い所に住む者を救いに導くためでした。

人間は少しでも高い所に上ることを求めますが、神の御子はいつでも低い所に下ります。(病人たちの最後の希みの場所であったベテスダの池は地下にあり、池を取り囲むように回廊が掘られていました)。いつでも低きにくだる、それが神の愛のご性質なのです。貧しき者、卑しき者、小さき者の友となられて、神の御子イエスは永遠のいのちの救いへと引き上げてくださる救い主なのです。

3. 私の愛する子 これに聞け

バプテスマを受け、ゆっくり水から上がられたイエス様はそのまま祈っておられます(言語語では現在分詞)。私たちは洗礼後、すぐに濡れた体をタオルで包み込みますが、祈りで包み込まれる恵みの人生が始まったことをイエス様の姿から学び、味わいたいものですね。

すると天が開け、聖霊がくだり、父なる神の御声が響き渡しました。「あなたは私の愛する子、私はあなたを愛する」と。2度にわたって「あなた」ということばが強調されています。最後の預言者マラキから約300年間にわたって閉じられていた「天がついに開かれ」、聖霊が豊かに強く働き出し、神の声が響き渡りました。数々の預言者たちの時代から、いよいよ神の御子イエス、救い主キリストの新しい時代が始まったのでした。新しい時代の扉がイエスキリストによって開かれたのです。

父なる神様がもっとも愛し喜ばれるのはイエス様です。イエス様を愛し喜ぶことができなければどうして父なる神様に愛され喜ばれることができるでしょうか。後に神様はペテロとヤコブとヨハネを連れて変貌山に登られ栄光に満ちた姿を示されたとき、光り輝く雲が湧きあがり雲の中から「これは私の愛する者、私はこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」(マタイ175)という厳かな神の声が響き渡りました。

イエス様とともにすでに新しい時代が始まっています。神の国が始まっています。イエス様は父なる神が愛され喜ばれるただ一人のお方です。

そして、私たちクリスチャンの人生の歩みは、このお方の声を聴き続ける日々なのだといえます。