【福音宣教】  イエス様の荒野での誘惑

イエスは40日間、荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣と共におられたが、み使いたちがイエスに仕えていた」マルコ1:13)

主イエスはヨルダン川で洗礼を受けた後、荒野で悪魔の誘惑を受けました。40日間にわたる試みの最後に、3つの大きな誘惑を受けました。

1. 荒野の誘惑

ヨルダン川の南西部一帯に広がる荒野は、北部の緑豊かなガリラヤ湖周辺とは全く風景が異なります。水もなく草木も生えない、鉄鉱石の赤茶けた岩肌がむき出しになっている荒涼たる荒々しい世界です。イエス様はそんな厳しい環境の中に置かれて、試みられました。

私たちもしばしばまさに荒野のような殺伐とした厳しい環境に置かれてしまうことがあります。健康を害し、病に伏したり、次々と痛みが襲ってきたり、経済的に苦しく厳しい状況に置かれたり、あるいは精神的に様々な恐れや悩みで心をかき乱され、あらぬ言葉で誹謗中傷され、非難され、まさに荒れ野、砂漠のただなかに1人置かれて孤独と嘆きの中で、心底辛い経験をすることもあります。

  マルコではイエス様が荒野に「追いやられて」と訳されていることばが、蓮見和男師の私訳では「御霊に引き回されて」と訳されています。イエス様があちこち無理やり引きずり回され、まるでいじめられているかのような印象さえ持ちますが、マタイやルカでは「み霊に導かれ」と訳され、厳しい荒野の環境の中に御霊がイエス様を導かれたと伝えています。それは荒野がどんなに厳しくまた過酷な場所であったとしても、そこもまた御霊がご支配され、全てを導かれておられることを意味しています。

とはいえ、実際に様々な困難に直面すれば、まさに引きずり回されているということばがぴったりくるような生々しい実感を経験するのではないでしょうか。荒野において悪魔の誘惑がいかに強く激しくとも、神の御霊がご支配され、そこを敗北の場ではなく、勝利の場とされることを私たちは学ぶことができます。クリスチャン生活は緑の牧場に伏し、憩いの汀に伴われる安らぎの日々ばかりでなく、厳しい荒野の日々を余儀なくされる時もあることを受けとめましょう。しかし御霊は決して離れることなくそこにおられ、さらには「み使いたちがイエスに仕え支えておられた」(マルコ113)ように、同じみ使いが弱く不完全な私たちを支えてくださることを信じましょう。

私はあなたの御霊から離れてどこへ行けましょう。・・・私が暁の翼をかって海の果てに住んでもそこでもあなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私をとらえます。(詩篇1397,9-10)

 2. イエス様がお受けになられた3つのサタンの誘惑

 サタンは石をパンに変えろ、神殿の屋上から飛び降りてみよ、悪魔の前にひざまずくならば全世界の富と栄華を与えようとイエス様を執拗に誘惑してきました。

イエス様に対する悪魔の誘惑は、イエス様がキリスト・救い主として遣わされた究極の目的をはぐらかすもの、巧みに阻止するものでした。イエス様が世に遣わされた目的は、「十字架による罪人の救い」 すなわち「罪の赦しと神との和解、その結果もたらされる永遠のいのちの幸い」を無代価で与えるためでした。ところが悪魔の3つの誘惑はイエス様のメシアとしての十字架への道のりを妨害し、すり替えようとするものでした。この世の中には貧困の故に明日のパンさえ手に入れることができない貧しくされた多くの人々がいます。もし、石ころをパンに変えて彼らに与えることができるならば、人々は貧困と飢餓と病や死から救われ解放されることでしょう。「パンを石に変える」この奇跡一つだけでも、十分にイエスこそ救い主、神の御子と民衆から崇められたことでしょう。 ただそれは、「十字架による贖い抜きの救い」を意味します。パンはいつか尽きてしまいますが、キリストにある永遠のいのちには限りがありません。パンを全人類に与え尽くすことはできませんが、キリストの救いは全人類に無代価で分け与えられ続けていくことが可能です。人は決してパンだけで生きるのではありません。

第2番目の誘惑も独特です。衆人が見守る中、高いエルサレム神殿の頂上から飛び降りたにもかかわらず、み使いが支え、無事に地上に立たせたとしたら、どうなることでしょう。まさにイエスこそ宗教界の頂点に君臨することができる救世主として崇拝されることでしょう。京都八坂の五重の塔から ブッダや孔子やマホメットが飛び降り、無事にふわりと着地すれば、一躍全世界の宗教界の頂点に君臨できることでしょう。しかしこれもまた「十字架による贖い抜きの救い」を意味します。この世の富・名誉・栄華を全て所有し、思いのままに分配することができるなら、人々は大いに満足し、彼こそ救い主に違いないと褒め称えることでしょう。しかしそれもまた、「十字架の贖い抜き」の空虚な救いとなります。 これらの誘惑はイエス様が歩まれるただ一つの道、イエス様の十字架への道を妨害するものでした。現世的なご利益、目を見張るような宗教的な奇跡、世の富に支えられた幸福によって人々の心を鷲掴みにする悪魔の戦略にほかなりません。

悪魔は私たちを「悪に誘惑する」のではありません。彼が持ち出した3つの内容はある面では、みな良いことばかりです。石をパンに変えて与えられればありがたいし、屋上から飛び降りても怪我一つしないならばありがたいこと、この世の富と繁栄をもたらし億万長者にしてくれるならばありがたい話です。日本的に表現すれば無病息災 家内安全 夫婦円満 商売繁盛 その上、宝くじで10億円当ててあげようと誘惑するようないいことづくしですから、誰もこれを悪魔の誘惑などとは思いません。 むしろイエス様の十字架と復活の話の方が受け入れがたい、信じがたい話とばかり、人々は拒み、心を閉ざしてしまいます。しかしながら、神は十字架の言葉の愚かさを通して(1コリント118)、すべての罪人を救いに導かれるご計画をお立てになられました。 それゆえ、カルバリの丘の死刑場で、群衆が口々に「もし神の子なら自分を救ってみろ、十字架から降りてこい」(マタイ2740)とののしりあざ笑っても、イエス様は十字架から降りることを拒否されました。十字架こそが神が定められた唯一の救いの道だからです。

この世の人々はパンを求め、生命の危機的状況に際しては神の完全な保護を求め、この世の富や栄華に憧れ、これを所有したいと願います。そして悪魔は「私にひれ伏すならば」という条件付きで、これを与えようと嘘偽りをささやき続けるのです。

 3. サタンも聖書の言葉を巧みに用いる

最後に、サタンも聖書を都合の良いように用いることを覚えましょう。聖書そのものが神ではないことを覚えましょう 神の言葉を、権威を持って語ることができるイエス様を信じ、信頼し、従うことこそが重要です。イエス様抜きの聖書は神ならぬ紙、ペーパーです。機械で印刷された文字に過ぎません。ヨハネ2031において「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることをあなたがたが信じるため、信じてイエスの名によっていのちを得るためです」と明言されています。私たちは聖書の中にイエス様を見出し、イエス様の中に神を見出し、聖霊に導かれて「イエスは主であり、救い主である」と告白し、日々従い続けるのです。たとえ荒野のような厳しい事態に置かれたとしても、決して悪魔にひざまづくことなく。

この地上の生活は、緑の牧場に伏させ、憩いの汀に伴われるような理想的な環境世界とはかぎりません。まだそれは実現していません。来るべき世において実現します。キリストの再臨の日を忍耐を持って待たなければなりません。全てはその日、完成します。それまで私たちは信仰のともしびを消すことなく、待ち続けなければなりません。この地上の生活はむしろ荒野であり、砂漠であり、蓮見和男師の私訳のように、「御霊によって引きまわされるような」ものであるかも分かりません。しかしイエス様が御霊に導かれて荒野に向かわれたように、そしてそこで勝利されたように、み使いたちが離れず、そこに共におられたように、私たちも御霊に導かれつつ荒野のような生活に置かれたとしても、決して悪魔の前に跪かない歩みを聖霊は導いてくださることでしょう。