「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)
ガリラヤ地方に行かれ宣教の働きを始められたイエス様の第一声は「神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」という言葉でした。アメリカ合衆国のトランプ新大統領の第一声は「アメリカファースト」でした。石破首相の国会所信演説の第一声は「楽しい日本」でした。こうしてみると、イエス様の言葉には深みがあり希望に満ちたメッセージが込められています。「神の国が近づいた。これが福音だ。だから悔い改めて信じなさい」との内容となっています。イエス様が伝えるグッドニュース・福音とは「神の国が近づいた」という力強い宣言でした。私たちは「神の国が近づいた」というイエス様の福音を忘れがちではないでしょうか。後にパウロが第1コリント15章1-4節で「福音とはキリストの十字架と復活による救い」と定義しました。イエス様が伝えた神の国の福音と、十字架の贖いと復活の福音はどのように結びつくのでしょうか。興味深いところです。
今朝は3つのことをお伝えしたいと思います。第1番目に神の国が近づいたという言葉です。第2番目には神の国と十字架と復活との結びつき、第3番目には神の国に入る条件です。
1. 神の国が近づいた
・「国」と訳されている言葉は「王による支配」という意味で、国境によって分けられる領土的・空間的な意味はありません。福音書では神の国、天の御国と約70回以上使われています。マタイでは「天の御国」と訳されていますが、これは同じことです。マタイ福音書はユダヤ人を対象に記されていますから、神の名をみだりに唱えてはならないという戒めに基づき、「天」という言葉に置き換えています。いずれにしろ、神が王として支配されるということを意味しています。
・「近づいた」という動詞は現在完了形ですから「近づきつつあるそしてもう到来した」という意味を持ちます。私たち日本人は「天国」というと「死者の世界」「あの世」というイメージを抱きますね。そうすると、イエス様が「あの世が近づきつつある。悔い改めてあの世を信じろ」という妙なメッセージを伝えていることになってしまいます。そうでは
なく、「神が王して治めてくださる新しい時代が到来した」ことを信じなさい。そして新しい時代にふさわしい生き方を始めましょうという良い知らせをイエス様は伝えたのでした。
しかも、旧約聖書(イザヤ9:1-2)において「異邦の民ガリラヤ」「闇の中を歩んでいた民」「死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」と預言されているガリラヤ地方に「王の恵みに満ちたご支配」が福音として響き渡ったことを意味します。
・神のご支配―神の国は、地上に住む人々の上にすでに臨み、人々は多様で豊かな力強さの中でもうすでに体験し味わうことができていたのです。
ルカ11:20「私が神の指で悪霊を追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」、ルカ17:20-21「神の国は目に見える形でくるものではありません。見よここだとか、あそこだとかいえるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただなかにあるのです」とイエス様は語っています。
イエス様のお働きは、町々村々を行き巡り、神の国の福音を宣べ伝え、病を癒し、悪霊を追い出し、罪人と呼ばれている人々と共に食事をする日々でした。
病を癒し悪霊を追い出すことは悪魔の力を打ち破ることを意味しています。当時のユダヤ教共同体は病人、貧しい人々、遊女、取税人、羊飼いらを罪人と呼び、共同体から排除しました。聖なる共同体に穢れが持ち込まれ神のさばきを受けてしまうと考えていたためです。ところがイエス様は彼らを招き、彼らと交わり、食事を共にして大いに楽しみ喜びあいました。イエス様は罪人たちを神の国の食卓に招き、ともに喜び祝い、大いなる喜びと希望を与えられました。それはまさに天の御国の祝宴に彼らを差別なく招き入れてくださったことを意味します。
2. では神の国と十字架の死と復活はどのように結びつくのでしょか。
フランスの聖書学者オスカー・クルマンは「キリストと時」(1954年岩波書店日本語訳出版)という名著を世に出しました。若き日にこの本を読んで、まさに目からうろこの体験をしました。主観的な感情的な信仰から、客観的なみことばの真理に立つ信仰へと移された貴重な体験をしました。キリストの誕生によって世界の歴史は紀元前と紀元後に二分されました。キリストの十字架と復活によって、全人類に対する神の永遠の救いの御計画(救済史)は、今の時代(古いアイオーン)と来るべき時代(新しいアイオーン)に大きく二分されました。キリストの復活によって、全人類の最大の敵である「死」が滅ぼされ、神の最終目的はすでに達成されたのでした。「最後の敵として滅ぼされるのは死です」(1コリント15:25-26)。復活こそがキリストの勝利の時であり、サタンと死の完全な敗北という未来が確定した時なのです。クルマンはわかりやすい例を引用します。第二次世界大戦におけるナチスドイツの公式な降伏は1945年5月のベルリン陥落です。しかし1年前の1944年6月、連合軍がノルマンディ上陸作戦に成功したその時に、連合軍の勝利はすでに決定的となりました。キリストの復活は全被造物を束縛している「死」に対する神の決定的な勝利の時であり、サタンの敗北が決定した時でもあります。やがて神の国は目に見える形でその輝かしい栄光の姿を明らかにすることでしょう。教会とクリスチャンはキリストの復活を中心とした「すでに」と「未だ」の緊張関係の中に置かれていますが、すでのキリストは勝利者として、王として座しておられ、ご支配しておられるのです。
・私たちに創造主なる神は左右2つの目を備えてくださいました。
神の国は神が支配される恵みと喜びの世界です。「すでに」それはキリストにあって聖霊の豊かなお働きの中で始まっています。私たちは2つの目の焦点をぴったり合わせて、この地上での生活を歩んでまいりましょう。「未だに」という厳しい現実が私たちの目の前には存在します。しかし「もうすでに」という恵みと勝利が私たちには約束されているのですから。あなたの目はピントがしっかりとあっていますか。独眼ではなく双眼で世界と人生を見つめましょう。
ヨハネの福音書では、「神の国に入る」という言葉が「永遠の命を得る」ということばに置き換えられて表現されているといわれています。永遠の命を得る条件は何でしょうか。ヨハネ3章16節に明確に記されています。
神の国は到来しました。あなたのもとにすでにきています。御子キリストの十字架の死と復活によって新しい神の時代がすでに始まっています。この御国の福音にあなたを投げ入れること、委ねることが求められています。
イエス様と共に十字架に処せられた一人の強盗が、人生最後の瞬間に、今までの生き方を振り返り、「あなたが御国にお着きになる時には、私を思い出してください」(ルカ23:42)と、精いっぱいの信仰告白をしました。その小さな信仰に対して「まことにあなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」(43)と、イエス様の素晴らしいお約束が与えれたのでした。これを恵と言わずなんというのでしょうか。
死刑場の露と消えるわずか数時間前の、かすかな小さな信仰の告白によって、一人の罪人が、罪の赦しと永遠のいのちを即座に、無条件で得ることできました。
カルバリの丘の死刑場でさえ、イエスがともにおられるならば、そこでさえも、王が愛と赦しをもって支配される、神の国となるのです。