「イエスは彼らに言われた。私について来なさい。人間を取る漁師にしてあげよう」(マルコ1:17)
1. 4人の弟子たちの召し
ガリラヤ湖で漁師をしていた4人の若者、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟をイエス様は最初の弟子として招きました。イエス様は「私についてきなさい。あなたがたを人間を取る漁師にしてあげよう」とシンプルに招きました。「Follow me」としか語りませんでした。ところが驚いたことに彼らはすぐに従いました。ペテロとアンデレは「網を捨てて」とあります。漁師にとって、いのちと同じほど大切な網を捨てるとは一大決心を指します。漁師の生活を投げ捨て、収入源さえ投げ捨てるほどの大きな決意を現します。ヤコブとヨハネに至っては「父ゼベダイと一緒に船の中で網を繕っていたとき」に呼びかけられ「すぐに船と父を残して」(マタイ4:21)イエス様についていきました。船と雇い人を持つことができるのは「網元」と呼ばれるほどの裕福な家を意味します。父親のゼベダイにすれば「おいおい、親父を一人残してどこへ行くのか、親不孝者!」と跡取りとなる二人を必死で呼び止めたかもしれません。
50年以上も前、私が牧師になる道を選択をした時、ホテルマンであった父親は、同じ道を歩んでほしいと願っていて、「お前、牧師なんかになってちゃんと食べていけるのか」と一生懸命、思いとどまるように説得してきたことを思い出します。この4人の若者は「すぐ従った」とありますが、あまりの単純さに驚かされるのは私だけでしょうか。彼らに迷いはなかったのだろうか、親兄弟のことなど何も考えず、後先考えずに突っ走ってしまったんだろうか・・などなど、いろいろ考えてしまいますね。
しかし、ヨハネの福音書をみれば、アンデレはバプテスマのヨハネの弟子であったことがわかります(ヨハネ1:40)。アンデレはイエス様が宿ってる場所までついていって、一晩イエスと語り合ったこともわかっています。その後アンデレは兄のペテロに「メシアに出会った」(41)と感動して伝え、ペテロをイエス様のもとへ連れて来たことがも記されています。ですから彼らはイエス様とすでに面識があり、アンデレに至ってはイエス様と一晩語りあかして、イエス様の説く「神の国の福音」に耳を傾け、心揺さぶられていたことがわかってきます。つまり、4人の若者はすでにイエス様を知っていたのです。ところが、イエス様の話を聞いて感動したとしても、相変わらずガリラヤ湖で漁師を続けていました。彼らが「すぐに従った」のは、イエス様と同様、彼らの「神の時が満ちた」からであったといえるのではないでしょうか。
聖書では2種類の「時」が使われています。時計が刻む一般的な「時間」(クロノス)と、神様の御心の中の時、人知をはるかに超えた神の御計画に組み込まれた特別な決定的な瞬間を意味する神の時(カイロス)の2種類です。クロノスに関する事柄に対しては、自分の都合で前倒しすることも、後回しにすることも、見合わせることも可能です。しかし、神の時に関する事柄に関しては、神が良しされる最善の時ですから、迷うことなく、ためらうことなく、「従う」ことが大きな祝福へとつながります。神様からのグッドタイミング、ベストタイムを失してしまうことは悲劇です。だから、すぐさま従えたのです。ガリラヤ湖での漁師の生活から、イエス様に従う新しい人生の道へと4人の若者たちは「神の時が満ちて」旅立ったのです。
「すべてのことには定まった時があり、天の下のすべての営みに時がある」(伝道3:1)
神の時に、神に従う者たちを、神は美しくしてくださるのです。
イエス様は「ついてきなさい」と呼びかけました。イエス様が常に先立たれます。弟子となった者たちは、一体これからどこへ行くのか、何をするのかわかりません。これといった定まった道があるわけではありません。イエス様が先立って歩まれる道に従って行くのみです。大宮先生は著書の中で「主と共に歩むことによって、道が踏み固められるのです」と記しておられます。主イエスに従い共に歩むことで、私の道が踏み固められていくのです。自分であちこち探し求める道は軟弱で迷走しやすいものですが、主と共に歩む道はいつしか固められゆるがない道となっていきます。「私が道であり真理でありいのちである」と宣言されるイエス様に従う時、あとで振り返るならば「これが私の道だったのだ」と静かなそれでいて大きな感謝に包まれることでしょう。
2. 人間をとる漁師にしてあげよう
歴史家のヨセフスは、「ガリラヤ湖は魚がじつに豊富で、330艘の船が操業している」と記しているそうです。塩漬けにした魚は都エルサレムに運ばれ、遠く離れたローマにまで輸出されたそうです。人間を取る漁師という表現は、一人一人をキリストと共に神の国に導きいれ、永遠のいのちへと救い上げる救霊の働きを意味しています。物言わぬ魚を取る以上の喜びがそこにはあります。全世界という広大な海に住む、数えきれないほどの多くの人々を神の御国へ、永遠のいのちへと導くのですからそこには比較にならないほどの喜びがあふれます。これは伝道者や牧師の大きな力の源となっています。50年以上、牧師として奉仕させていただいている私の喜びでもあります。
3. 神の御国の福音を伝える目的
イエス様はやがて多くの弟子たちの中から12人の弟子たちを選ばれ、任命されました(マルコ3:16-19)。彼らに、神の国の福音を知らせる使命が託されました。「全世界の人々に福音を伝えなさい」(マルコ16:15-16)との世界宣教をイエス様は彼らに命じました。その目的は「神の国の福音は全べての民に証をするため全世界に宣べつたえられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」(マタイ24:14)と主が約束されたように、神がご計画された「終わりの時」つまり、神の国の完成の時が来るためです。天と地を創造された真の神が全世界を統べ治める完成の時が来るからです。神の御心が天でなるように地においても完成する時、神の愛と恵み、神の義と平和がついに実現する時と、世界宣教命令は一体となっているからです。
神の国は御子がこの世界に来られ、宣教の働きを始められた時から「すでに」始まりました。そして御子の十字架の死と復活によって、罪と死とサタンは「すでに」決定的な敗北を喫しました。御子が神の最後の敵である死を滅ぼし、決定的な勝利を得たからです。しかしながら、「未だ」この世界には様々な罪と悪事が満ち、残虐な争いが絶えず、貧困、差別、抑圧、搾取といった「構造的な暴力」が拡大しつつあり、神が創造され「はなはだ良かった」と喜ばれた被造物の世界は、傷つき呻き苦しんでいます。けれども「ついに」キリストが王の王として再び来られる日、再臨の日に、王の完全な支配が全地に及び、全地を統べ治め、神の国は完成するのです。
この壮大な神の贖いのドラマの完成のために、神は弟子たちを用いようとされたのです。「神の国の福音」を宣べ伝える働きは、都エルサレムから遠く離れた辺境の地、暗黒の地と呼ばれたガリラヤから始まりました。しかもイエス様はガリラヤ湖で漁に励むただの漁師たちを召されました。天使たちではなく、無力で無学な弟子たちに神の壮大なドラマの主役になるように召してくださったのです。「恐れるな小さな群れよ、御国を下さることはあなたがたの父の御心である」(ルカ12:32)と励ましてくださったのです。
始まりはだれの目にもとまらないほどの小さく目立たない隠れた存在でした。「からし種」(マルコ4:31)のたとえ話のように、ほんとうに小さな小さな始まりでしたが、「神の国の福音」はやがて全世界に拡大し、大きな存在となり、役割を担い、世界の歴史を動かしていくまでに成長しました。
イエス様の弟子たちの一人一人は小さく無力で、世の中からみれば取るに足りない無価値で隠れたような存在であったとしても、神の国の完成のためにはなくてはならない大きな存在でした。イエス様が神の国の到来を宣べ伝えたように、イエス様の弟子たちは神の国が完成する希望と喜びを、宣べ伝えるのです。
先ほど紹介した大宮先生は、「神は人を通して、人と出合われます。人は人との出会いを通して、神と出会うのです」と語っています。だから天使ではなく、私たちが用いられるのです。
イエス様はガリラヤ湖で漁を営むただの漁師たちを「さあ、時が満ちた。私についてきなさい」と召されました。イエス様は御霊を通して今も、私たちに呼びかけておられるのではないでしょうか。
「さあ、時が満ちた。私についてくるかい」と。