「人々は その教えに驚いた。それはイエスが律法学者のようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」(マルコ1:22)
イエス様は神の国の到来を告げる福音宣教のために、ガリラヤ湖で漁師をしていた4人の若者を招かれました。その後の安息日に、彼らが住むカぺナウムの村にあるユダヤ教の会堂に入られ、人々に教えられました。ユダヤ人の家族が10組集まれば会堂を建てなければならないと律法に定められているため、いたるところに会堂があり、祈りと神の言葉の朗読そして解説からなる教育が行われていました。遺跡となっている古い時代のユダヤ教の会堂をイスラエルで訪問しました。石の床に子どもが書いた落書きの跡が残っていました。両親とともに幼い子供もこうして会堂に集い、神の言葉を聞き、退屈になったら床に落書きをして遊んでいたのだと想像し、ほほえましく思いました。
1. 権威ある者
イエス様は会堂司から手渡された巻物から解き明かされましたが、それはラビと呼ばれる教師や学者たちが詳細に「説明」したり、立派な専門家学者たちの教えを引用して「解説」する姿とは異なり、「権威ある教え」そのものでした。イエス様のことばに神からの権威、威厳が満ちていたのでしょう。会衆は驚きました。一例としてルカの福音書では、ナザレの村の会堂でイエス様が「今日この言葉が成就した」(4:21)と大胆に宣言されました。そして人々は「イエスの口から出る恵みのことば」に驚いた(22)と記されています。
真の権威とは「神の恵みのことば」を語る者にふさわしいのです。権威と権力とは異なります。ヘロデ王、総督ポンテオピラト、大祭司カヤパやアンナスなどは当時の権力者でした。しかし彼らから恵みのことばなど聞くことはできません。イエス様は神の御子でしたから、真理と真実を語ることができます。神が遣わされたキリストだからこそ、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と権威をもって宣言することができました。私たちは、イエス様を通して「恵みの言葉」を聞き続けたいものですね。
2. あなたこそ神の聖者です
さらに、イエス様の権威をその日、会堂にいた人々は現実的に体験することになりました。悪霊につかれた人がその日、会堂に集っていたのです。
福音書の中には「悪霊につかれた」人々が何度も登場してきます。精神医学が発達した今日では、彼らは「精神病患者」たちを指していると割り切ってしまう傾向があります。一方、古代社会や中世キリスト教世界では、あらゆる病気や災いは悪霊によって引き起こされると極端に考え、「悪魔祓い」の迷信に陥ってしまったという歴史的過ちもあります。何事も両極端に走ってしまうことに対して注意を払わなければなりません。極端に2極化してしまうことは分裂と対立を生み出し、破壊者であるサタンの思惑に陥いれられてしまうことになりかねません。
1)まず、覚えたいことがあります。カぺナウムの会堂に、汚れた霊あるいは悪霊につかれた人がいても、会衆は彼を排除しませんでした。大きく包み込んでいました。悪霊と悪霊につかれた哀れな傷ついた病める人、苦悩する人とをちゃんと区別する「理性、包容力、慈しみの精神」があったからです。彼を決してさばいて排除しませんでした。
2)汚れた霊は、イエス様の権威に敏感に反応しました。彼はイエス様の臨在に触れ「われわれを滅ぼしに来たのですか」(24)と叫びました。「われわれ」と複数で呼んでいます。後にガリラヤ湖の対岸ゲラサの地で、墓場を住まいとしている汚れた霊につかれた人は「レギオン」と名乗りました。
3)汚れた霊は「滅ぼしにきたのですか」とイエス様に向かってまさに危機感を訴えています。イエス様は「神の国が近づいた、いやもうすでに来ている」と福音を宣言されました。先週、学んだように「神の国」とは「神の御支配」を指すことばです。罪の世の中で、悪霊とサタンが人間を罪と死と滅びの中に束縛し、押さえつけ、闇の支配下につないでいます。しかしついに神の時が満ちて、イエスキリストを通して、神の力と神の義と愛と平和に満ちた支配が到来します。イエスの十字架の死と復活によって、罪も死もサタンも決定的な敗北を帰し滅び去っていく運命にあるという、終末的な結末を彼らは知っており、恐れており、危機感を抱いているのです。
4)悪霊は「あなたは神の聖者です」(24)とイエス様の正体を見抜いています。汚れた霊たちは、イエス様がどなたなのか、真の姿を理解しています。「神の聖者」(1:24)、「神の子」(3:11)、「いと高き神の子、イエス様」(5:7)とわかっているのです。悲しいかな彼らはイエス様の真実を知ってはいるが、イエス様との交わりを持つことは決してできません。悲しいかな、私たちクリスチャンと教会はイエス様との交わりを持ちながら、イエス様をまだ十分、知らないのです。わかっているようでわかってはいないのです。「私を見た者は父を見たのです」(ヨハネ14:9)、「父の懐から出た一人子の神が、神を解き明かされたのである」(ヨハネ1:18)。「この方は恵みとまことに満ちていた」(ヨハネ1:14)とヨハネはイエス様の隠された真実を繰り返し証しますが、弟子たちになかなか理解できませんでした。もっと主を深く知るものとされたいですね。あなたは私を誰というのか?とイエス様は問いかけておられるのではないでしょうか。
3. 黙れ、この人から出ていけ (25)
イエス様はこれ以上汚れた霊になにもしゃべらせず、権威ある言葉をもって悪霊を追い出しました。言葉をかえれば、この男性は長年に渡る苦しみと混乱、自己乖離から解放されました。イエス様の権威あることばと力によって、「汚れた霊」と「彼自身」とは分離され、解放され、自分自身を取り戻すことができました。キリストによってもたらされる神の国、新しいご支配は、解放の御業という一面を持っています。キリストは私たちを様々な束縛、支配、この世の価値観、神を否定する無神論や虚無主義から解放し、自由を与え、神が創造され「良し」とされた本来の人間性を回復させてくださるお方なのです。悪霊の代わりに、キリストの御霊を住まわせてくださり、神と隣人と自分自身を愛して、祝福を他の人々に伝える存在としてくださいます。おごり高ぶりは打ち砕かれ、へりくだってキリストの僕として生涯を歩みつつ、やがてキリストの御国へと移されていくことは私たちの望みであり、喜びです。
まとめましょう。イエス様の権威とは、恵みの言葉を語り、恵みの御業をなし、恵みから恵みへと導き続けてくださる「恵みの力」を指します。それはまさに「神の愛」そのものにほかなりません。
アメイジンググレース(すばらしき神の恵み)を作詞したのはイギリスの牧師、ジョン・ニュートンです。
荒すさんでいました。22歳の時、嵐に遭遇し、船が転覆沈没の危機に陥ったとき、母の言葉を思い出し、初めて心の底から祈ったところ、奇跡的に助けられました。
ニュートンはこの日を転機とし、それ以降、酒や賭け事、不謹慎な行いを悔い改め、聖書を読むようになりました。29歳で牧師となり、46歳でこの曲を作詞したと言われています。黒人奴隷貿易に関わったことに対する悔恨と良心の痛みに苦悩しましたが、それにも拘らず赦しを与えてくださった神の愛に対する感謝を、この歌詞にこめたのでした。
彼はこうして「闇の支配から光の中へと移されました」(使徒26:18)。
救いは、罪の赦しという恵みのみならず、罪の奴隷状態、闇の支配からの解放の御業でもあります。キリストは十字架の死によって罪の赦しを与え、神の怒りと裁きから解放してくださいました。復活によって人類と神の最大の敵である死とサタンの力を打ち砕き、死の恐怖から解放してくださいました。モーセによってイスラエルの民がエジプトの支配から解放されたように、キリストによって古き罪の世から、サタンの支配から、囚われ人は解放されていくのです。
一人の兄弟が「詳しいことはよくわかりません。いろいろユーチュブなどを聞くと解釈がいっぱいあってますます混乱してしまう。でも一つだけ私にはっきりしていることがある。イエス様が死の恐怖を解決して下さったこと。それだけで十分なのです」と、話してくださいました。この方もまた、すばらしき神の恵みにとらえられ、死の恐怖から解放され、神の国の福音に生きるおひとりとされています。感謝にたえません。