「イエスは彼女に近寄り、その手をとって起こされた。すると彼女は彼らをもてなした」(マルコ1:31)
イエス様は、安息日にカぺナウムのユダヤ教会堂で、権威に満ちたメッセージを語り、大勢の会衆の面の前で、悪霊に支配された男性から悪霊を追放され、ご自身の権威を目に見える形で明らかにされました。その後に、イエス様はアンデレ、ヤコブ、ヨハネとともにぺテロの奥さんの実家に行きました。ペテロに奥さんがいて、その実家にペテロもアンデレも一緒に住んでいたようですから、サザエさん家族のような雰囲気が想像できます。本来、ペテロとアンデレはカぺナウムではなく7-8km離れたベッサイダの出身(ヨハネ1:44)だからです。
1. ペテロの姑の癒し
ところが、家内では、ペテロの義理の母親が長引くひどい高熱で(ルカ4:8)すっかり体力を奪われ、無力な状態で臥せっていました。イエス様はすぐさま彼女のそばに近寄り、彼女の手を取って、起こされ、熱病を癒されました。
なにより、このイエス様のふるまいの自由さに驚かされます。
この日は安息日でした。ユダヤ教の戒律によれば安息日には一切の労働が禁じられ、危篤状態でなければ病人を治療することは禁じられていました。ところがイエス様はそんなことお構いなしです。病気で苦しんでいる人を放置できない、ほっておくことなどはできなかった。病める人がそこにいればそこに行き、手を差しのべる人、それがイエス様です。しかも当時のラビと呼ばれるユダヤ教の教師たちは、妻以外の女性の体に、それがたとえ手であろうと、触れることは禁止。さらに感染症が心配される熱病の人などに触れることも固く禁止されていました。にもかかわらずイエス様はペテロの義母に手を差し伸べ、彼女を癒し、彼女を苦しみから解放されました。既成観念、固定観念に縛られないイエス様の愛の行動力が現れています。イエス様の前では、様々な偏見、差別、宗教的な戒律の壁が崩されて行きます。その最後の愛の極みが、罪一つおかされなかった聖い神の御子の十字架の死であったのです。
さて、もう一つ着目したいことがあります。悪霊に支配されていた人はイエス様が会堂に入られたときから、脅威を感じ、騒ぎ叫び出しました。もし彼女の熱病が悪霊の仕業であれば、悪霊はきっと騒ぎ出し、同じように彼女から逃げ出したことでしょう。しかし「病」は逃げ出しません。悪霊のせいではないからです。むしろ、病には、きっと「隠された深い目的」があるからです。悪霊はその人に何一つ良いことをもたらしません。しかし「病」には、神様からの「贈り物」という隠れた深い意味があります。使徒パウロも病で苦しみました。人の病を癒すことができても自分の病をどんなに祈っても願っても癒せなかった。その葛藤と苦悩の中でパウロは「神の真実」を知ったのです。「私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さの中に完全に現れる」(2コリント12:9)と。もちろん病は一日でも一刻でもはやく治ってほしいし、私たちも願っています。しかし「病」には神様からの贈り物とでも呼べるような恵みが隠されていることも見落としてはなりません。病に伏せることがなかったならきっと気がつかなかったこと、通り過ぎてしまっていたことが多くあるのではないでしょうか。イエス様はその隠された大切な意味をと目的を一緒に捜し出してくださるお方なのです。病める時には、癒やしを願い求めるだけではなく、隠された贈り物を、イエス様と一緒に捜し出す旅にでましょう。
韓国のイ・チソンさんは大学生の時に交通事故で全身55%以上に及ぶ大やけどを負いました。壮絶な苦しみの中から回復しました。彼女の人生がドラマ化されその主題歌に用いられたのが「あなたは愛されるために生まれた」という名曲です。久しぶりに教会の礼拝に戻ったものの、深く帽子をかぶり、人に見られまいと下ばかり向いていたそうです。すると牧師が「チソン、君を苦しむ人や病める人の希望のメッセンジャーにしてあげよう」と、声をかけてくれたそうです。彼女はこの言葉を、神様からの言葉として受け止め、その時から変わりました。今まで直視できなかった鏡に映る自分の顔に向かって「こんにちは、チソン」と呼びかけたとき、鏡の中の自分が「チソン、愛しているわ」と語り掛けて来たそうです。病やけが、癒えがたい痛みや傷を負うたとしても、なおそこには神様からの隠された贈り物があるのです。イエス様は一緒に捜し出してくださるお方、あなたを愛してくださる癒し主なのです。
イエス様のなさる病の癒しは、魂の癒しすなわち救いと深く結びついています。今日でも、「主イエス様は癒し主」として共におられ、働いておられることを信じましょう。病からの癒し主、傷ついたからだとこころを癒す、主であることを信じましょう。
2. 癒された母は起き上がってイエス様と弟子たちをもてなした
癒された母親は、起き上がって料理をつくって喜びのあまりもてなしました。マタイ8:15では「イエスをもてなした」と記され、この動詞は未完了形なので「継続」を現し、彼女が残りの生涯をイエス様への奉仕にささげ、イエス様の弟子となったということを示しているとも言われています。さらにペテロの妻は、信者となってペテロと一緒に伝道旅行にも同行していた(1コリント9:5)と記されていますから、ペテロの家族におおきな祝福が臨んだことがわかります。
ペテロとアンデレは、イエス様に招かれたとき、「網を捨てて」(18)すぐに従いました。ヤコブとヨハネは「父ゼベダイと雇い人たちを船に残して」(20)すぐに従いました。網漁師にとって網は家族を養う大切な生活の糧を得る道具、船を所有し雇い人までいることは漁師仲間でも網元クラスの裕福さを表しており、社会的経済的な安定さを意味しています。さらに父ゼベダイを残しとは、跡取り息子としての親の期待や立場や深い家族のきずなさえも、最優先とせずに、まずイエス様に従ったことを意味しています。しかし、その結果何がもたらされたでしょう。思いもかけない恵みをいただきました。ペテロの家族は救いに満ちびかれ、天国の鍵がペテロには託され、ヨハネはイエス様の母マリヤを自分の母として引き取り、ヨハネの福音書、3つの手紙、黙示録を後世に書き残すという栄誉ある働きに預かりました。
「まず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのことはすべて与えられます」(マタイ6:33)とイエス様は約束されました。この人生で最優先すべきことは、神様を信じ、神の国すなわち神の御支配に新しく生きることです。イエス様を信じ、イエス様に従って失敗したという人、後悔をしたという人を私は知りません。
私たちが救われたのは、私たちが祝福の基とされて、神の祝福を他の人々にもたらすためです。
「王である祭司」として「闇の中からご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を告げ知らせるためです」(1ペテロ2:9)
クリスチャンには2種類あります、ガリラヤ湖のようなクリスチャンと「塩の海」のようなクリスチャンです。ガリラヤ湖からは豊かな水が、ヨルダン川を通じて死海へと流れ続けています。ところが死海は海面下340mにあり、どこにも水の流れ口がありません。どんどん干上がり塩分が濃くなり、最終的には塩の塊だけになりかねません。
救われた人は他の人々に救いの福音を語るため、癒された人は他の人の癒しのために祈りつつ、隠された贈り物をイエス様と一緒に見出すことができるように寄り添うため、愛された人は、他の人々を愛するために召されました。神の祝福を分かち合う基とされていることに、あなたの生きる意味があるのです。