「イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言った」(マルコ2:5)
イエス様は再び カペナウムに戻られ 熱病を癒されたペテロの姑の家あるいは、船と雇い人が大勢いる網元のような立場にあるヤコブとヨハネの父ゼベダイの家に宿泊されたと思われます.
1. 主イエスのことばを聞く大勢の人々
「中風」というのは手足が不自由になり自分の力で立つことも歩くこともできなくなった病気のことです。現代医学では脳血管障害(脳卒中)、すなわち脳梗塞か脳内出血あるいはクモ膜下出血による後遺症で手足の自由を失ってしまった人と推定できます。日本の場合、脳卒中の90%以上は65歳の高齢者、とくに脳梗塞の場合は肥満との関連性が非常に高いと報告されています。
彼をイエス様のもとへ運んできたのは、おそらく病人の家族かあるいは友人たちであったと思われます(まだ救急車や救急隊員などない時代ですから)。ところが家の中には入れない。さあどうする!
今日は日が悪いと諦めて引き返すこともできます。順番が来るまで外でずっと待ち続けるか。力づくで中の人を押しのけて割り込むか。ところがなんとこの4人は外階段を駆け昇り、家の屋上に上がりました。パレスチナの家は壁に梁と垂木を組み合わせ、その隙間を粘土で固め、筵や小枝で覆いをして屋根を作ったそうです。ですから屋上に上がってイエス様がおられる部屋あたりの天井の泥や筵や小枝を取り除けばすっぽりと大きな穴が開いて、そこから病人を乗せたままイエス様のも足元へとつりおろしました。家の中にいた人もびっくりしたでしょう。イエス様もさすがに驚かれたことでしょう。天井を壊されてしまった家の持ち主も目を丸くしたことでしょう。
彼らの行動は常識はずれ、普通では考えられないような行動でした。不法侵入、器物損害罪。ところが彼らを責め立てる雰囲気はあまり感じられません。英国の聖書学者バークレーは「障害をものともしない彼らの熱心な信仰をイエス様がご覧になった時、理解し、微笑みを漏らされたに違いない」と注釈しています。目くじら立てる者はいない。ユーモラス、おおらかであります。
信仰の世界には、しばしば常識の枠の中に縛られない要素があります。何としてもイエス様のもとに病む者を導きたいという強い願いが、このような行動を起こしたのでしょう。私たちは今日がダメならまた明日があると考えがちですけれども、彼らはまた次の機会にとは考えませんでした。今日を大切にし、今この時を大切にしました。信仰の世界には、いつかそのうちにというのではなく、今日この日に、というイエス様との出会い、神との出会いを求める真剣さが求められると思います。
今日が人生最後の日と真剣に思えば、私たちの一日の行動が変わるのではないでしょうか。今日の礼拝が人生最後の礼拝の日と思えば、み言葉を聞く姿勢も、主イエスを見るまなざしも、ささげる祈りも真剣になるのではないでしょうか。
2. あなたの罪は赦された
イエス様は彼らの信仰をご覧になって、中風の人に向かって「あなたの罪は赦された」と宣言されました。イエス様は表面上の行動や行為ではなく、その背景にある動機をご覧になっておられます。
わざわざ4人が力を合わせ戸板に乗せ、1人の病人をイエス様のもとまで連れてくる。人がいっぱいで中に入れなかったら、床を水平に保ったまま力と汗水を流して屋上まで持ち上げてくる、手が痛くなっても天井の垂木や泥や小枝を掻き出し、穴を開け、イエス様の足元にゆっくりと病人をおろしてくる。並大抵のことではない。また他の日に出直そうと説得する方がよっぽど楽である。でも彼らは知恵を働かせ、力を合わせ、彼をイエス様の足元へと吊りおろした。それはイエス様への信仰と病む仲間への愛がなければ決してできないことでした。聖書は「尊いのは愛によって働く信仰である」(ガラ5:6)と教えています。
イエス様も彼らの信仰に応えてくださいました。そして中風の人に向かって「あなたの罪が赦された」と宣言されました。マタイ9:2では「子よ、しっかりしなさい」と付け加えられています。この言葉は「勇気を出せ
思い煩うな 心配するな」という意味です。「安心しなさい。もう大丈夫だ、私があなたとあなたの友人たちの信仰をしっかり受けとめたよ」とばかり労っておられるのです。
イエス様はこれまで多くの病気を癒し、悪霊を追い出し、人々に救いをもたらしました。けれども マルコはここで初めて、イエス様が病気の癒しよりも罪の赦しを最も根源的なこととして重視されていることを明らかにしました。病気が癒されることそれは「一時」に過ぎません。再び病気で倒れる日も来るでしょう。そしてその先には老いと死が待っています。しかも死の先に何が待っているでしょうか。神様抜きの人生を歩む者には神の審判と永遠の滅びが待っています。「人は一度死ぬことと死んだ後、神の審判の座につかなければならない」(ヘブル9:27)と教えています。 1人の例外もなく100パーセント確実に迎えるおごそかな事実です。ですからイエス様は彼に、神様からの最高の祝福として「罪の赦し」という恵みを与えたのでした。
その後、イエス様は彼に対して「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで家に帰りなさい」と
命じました。するとたちまち、動かなかった手足を動かし、足には力がみなぎり、起き上がり、自らの手で重い寝床をたたみ、家に帰って行きました。「家に帰る」が主動詞です。ずっと動けなかった、ずっと不自由だった、誰かに依存しなければ生きられなかった、そんな古い生活から、いっさいの過去の苦悩と罪深き生活から、立ち上がり、自分でしっかり歩き出すことができたのです。
3. 神 一人の他 、誰が罪を赦すことができるのか
居合わせた人々が驚き、神を崇める中で、その場に座っていた数人の律法学者たちが心の内で、イエス様を非難しました。罪を赦す権威は神以外には誰も持っていない。この人は神を穢した、神を冒涜したのだと騒ぎだしました。そこでイエス様は彼らに対して「罪が赦されたというのと起きて歩けというのと、どちらが容易いことか」と問いかけました。彼らは罪を赦すことも、病気を癒すことも神にしかできないことを知っていました。ペテロの熱病を癒し、悪霊につかれた男から悪霊を追放し彼を解放し、ツラートと呼ばれる重い皮膚病をたちどころに癒される力を持つイエス様は、何よりも罪を赦す権威を持つただ一人のお方であったのです。「人の子が地上で罪を許す権威を持っていることを
あなた方に知らせるために」(2:10)主イエスは彼を癒し、赦しの宣言を与えたのでした。いよいよマルコはイエス様がこの地上に来られた真の目的を、この言葉を持って明確に記したのでした。
イエス様の宣教は「神の国が到来した、悔い改めて福音を信じなさい」でした。神の国すなわち神の統治、恵みの力とご支配がすでにイエス様と共に地上で始まっている。ですから悪霊たちは自分の居場所を失って無力になっています。同様に、罪の赦しもすでに始まっているのです。
神の国の完成は終末の再臨の時まで待たなければなりませんが、罪の完全な赦しは3年も経たないうちに、カルバリの丘の十字架にイエス様がつけられた時、全人類の罪の贖いの供え物としてご自身の命をささげられた時に成就しました。十字架の上で「父よ、彼らを赦してください」と祈られたあの時に、罪の赦しはすでに成就しました。神の国の到来は、「罪の赦しの到来」。キリストの御国の始まりは「赦しの王国」(渡辺)のはじまりだったのです。
「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)
「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」
教会が語り続けるメッセージは「十字架による赦し」です。毎週の説教と聖餐式を通して「赦しの宣言」を語り、聞き続け、十字架の恵みの中に生きるのです。
誰が私の罪を赦すことができるのか。このテーマで深く 苦悩した1人の日本人作家がいます 三浦綾子さんです。彼女は学校の教師でした。そして軍国主義の時代のただ中で教え子たちを天皇のため、神国日本のためと戦場へと送り出し、教え子たちは戦場で命を落としていきました。日本が敗北し、神と仰いだ天皇は人間宣言を出し、新憲法が制定されて学校教育も一変した。彼女は子供たちの前にもはや立つことができずに教壇を去り、自暴自棄の生活を送っていました。「誰が私の罪を赦してくれるのか」 自分で自分を許すことなど到底できませんでした。その暗闇の中で彼女はクリスチャンに導かれ、イエスキリストの十字架の赦しを信じ、イエス様の十字架のもとに今までの痛みも罪深さも過去の過ちも全ておろすことができました。この十字架の赦しの恵みと体験を筆に託してつづったのがあの「氷点」と「続氷点」という名作でした。「氷点」では原罪と呼ばれる人間の罪深さを深く扱い、殺人犯の娘として生まれた自分自身の過去を知った主人公陽子の凍りついた心を「氷点」と名付けたのでした。それは 三浦さん自身の過去の罪深さに凍りついた自らの姿でもあったのです。
続氷点では、最終章「燃える流氷」の中で、網走の流氷を見に1人旅をする陽子が描かれています。以下は文書からの抜粋引用です。「3年前 罪をはっきりと赦す権威あるものが欲しい」と遺書に書いたはずだった。死を前にして抱いたあの真実の自分の願いが今にわかにここに蘇ったような気がした。 灰色一色の氷原が一瞬、夕陽が差して深紅に染まった。燃える氷山。「天からの血」そう思った瞬間、陽子はキリストが十字架に流されたという血を今、目の前に見せられているような深い感動を覚えた。先ほどまで信じ得なかった神の実在が突如として何の抵抗もなく信じられた。
自分がこの世で最も罪深いと心から感じた時、不思議な安らかさを与えられることの不思議さを覚えた。そして祖父が陽子に語ったフランスのカトリック神父のことば
「一生終えて 後に残るのは、我々が集めたものではなくて 我々が与えたものである」が、心によみがえってきた。このことばこそ真の人間の生き方が示されているような気がする。・・・・やがて陽子は自分を捨てた生みの母へ電話を入れるのである。「あかあさん、ごめんなさい」と。